黒木晩石(くろぎばんせき)1896(明治29)年〜1992(平成4)年


●新聞記者魂を伝える
 「新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべし」。言論人としての自負であり、晩石が生涯抱き続けた信念である。しかも、こよなく宮崎を愛した現役記者、その一貫した批判精神は老いることがなかった。
 本名は勇吉、現在の日向市美々津に生まれた。1916(大正5)年旧制宮崎中学校卒業。在学中は同校教頭大峡秀栄宅に寄宿、禅を学び弁論部の雄として知られた。晩年、親交を結ぶ眼科医杉田正臣が1級下にいた。1922(大正11)年、早大専門部政治経済科を卒業。同時に旧報知新聞に入社、統一部長・論説委員などを歴任。
 1942(昭和17)年報知・読売両新聞社合併に際し、読売に転社、ここでも論説委員を務めた。この間、1939(昭和14)年には事変下の大陸に渡り、およそ3カ月間取材の旅を続けた。記者として暗雲漂う時世を直感し、1941(同16)年、郷土の先覚者伝『小村寿太郎』を刊行、小村の業績を検証した。
 一方、報知新聞時代「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行。その誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが主宰すること50年に及んだ。1951(同26)年読売新聞を退社するが、この間、長谷川如是閑・野間清治らと親交を結んだ。帰郷し宮崎南駅前ビルに居を定め、ここを淀南「三春居(さんしゅんきょ)」と名づけ、筆名を晩石と称し著述に専念した。70歳以降の大業である。『小村寿太郎』(増補版)『秋月左都夫』『若山牧水』『乃木希典』『石井十次』の伝記5部作を完成。さらに記者の魂を伝える『春秋時言』『古今宮崎史談』『歴史の断面と人』(正続)など枚挙にいとまがない。まさしく時代を果敢に生きた生粋の言論人だった。(山口 保明)
メモ
◎三春居の春
 1951(昭和26)年、読売新聞社を辞す。まさに第2の春。1961(同36)年、居を東京より宮崎に移す。まさに第3の春。こうして、史・資料にうずもれた南宮崎駅前ビルの1室を「三春居」と自称した。
 壁には黒木勇吉少年の正帽姿の写真。起床して最初のあいさつは、この写真に向かっての「黒木君、おはよう」であった。目を転ずれば先達・如是閑の歌「国やぶれてやま河はあれど人みな心をうしなへり山河はあれど」の額装。晩石は終戦の傷心を如是閑によって救われ、師と仰いだ。この1首を復唱して、その日の著述にかかり第3の青春を生き抜いた。
 晩石はこの三春居において、“伝記5部作”をはじめ『美々津郷土誌』歌集『生きのこる』詩集『道』『白雲青山』など10余作を著した。ちなみに「晩石」を号したのは70歳からで、「石を把(と)って投ずれば天に声あり」の自句による。90歳を越えて、筆力は一層さえた。


黒木晩石の写真
謝辞を述べる黒木挽石(1980年、晩石翁を励ます会で)







執筆活動の拠点の写真
執筆活動の拠点「三春居」は2階にあった(南宮崎駅前ビル)

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