酒井ハル(さかい)1902(明治35)年〜1985(昭和60)年


●母子施設設立に貢献
 戦前までの出産は、ケガレた行為とされたため、人目にふれない部屋などで行われ、母体の安全や衛生面への配慮など決して十分ではなかった。明治末期から普及し始めた免許を持った産婆(さんば)=後の助産婦=は、医学的に安全で衛生的な助産方法の普及に努めることが、第1の仕事であった。
 特に、酒井ハルのように野尻町で初めて免許を取得した者にとっては、それまでの「取り上げ婆さん」の無料助産から、有料助産への理解を求めるのには苦労が多かった。費用の分割払いや代替品での支払いに応じたり、家庭問題の相談に乗るなどの役割をすることもあった。
 現野尻町境別府に生まれ、宮崎市の病院に住み込みで働きながら、産婆学校に通い、1922(大正11)年に試験に合格した。
 小林市の病院での実地を経て、翌年21歳の時、東麓に産婆院を開業。野尻で初めての免許取得者であった。責任感が強く、機転が利き、妊婦の養生には厳しかった。大工であった夫・忠作が、当時は珍しかった自転車の後ろに日傘をさしたハルを乗せて走る姿は語り草になっている。
 後に安全で安心できる出産のために母子健康センター建設を志し、彼女をはじめ4人の助産婦が中心に活発な署名運動を行い、設立に貢献した。センター設立以前は、ほとんどが自宅分娩(べん)であったが、1967(昭和42)年の設立後はほとんどの妊婦はこのセンターに入院し、適切な処置のもとに安心して出産を行うことができた。
 その功により1980(同55)年には読売新聞社の「第8回宮崎県医療功労賃」を受賞した。(渡辺 一弘)
メモ
◎母子健康センター
 母子健康センターは1967(昭和42)年4月1日に設置された。酒井ハル、岩切ハツエ、原田ユキエ、永田シズエ4人の助産婦が中心となって、1963(同38)年から1966(同41)年にかけて婦人団体・区長会などの協力のもとに、町内医師団と小林保健所の指導を受けて町長と町議会に対し陳情・請願、県や国への要望を重ねた。助産部門は町内外から月平均11人の利用があり、常時満床の状態が続いた。
 しかし、昭和50年代になると、保険制度の充実で専門病院でのお産が多くなってきた。1982(同57)年には設立当時の5%の利用しかなくなったため、県の承諾を受けて翌年3月をもって休止した。


酒井ハルの写真
晩年の酒井ハル







母子健康センターの写真
1967年に酒井たちが中心になった書名運動で設立された母子健康センター。いまは取り壊され駐車場に

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