坂元鐘一(さかもとしょういち)1902(明治35)年〜1987(昭和62)年


●人形浄瑠璃継承に尽力
 山之口町麓(ふもと)地区には、全国的にも数少ない文弥節人形浄瑠璃が伝承されている。
 麓地区への伝承は、参勤交代のお供をした麓の郷士が習い覚えて帰ったと言い伝えており、明治以降もそれらの家の人々によって継承され、地区の祝い事があるときに上演されてきた。
 しかし、大正末から第2次大戦のころにかけ、ほとんど上演されることはなかった。戦後間もない1950(昭和25)年、途絶えていた人形浄瑠璃を復活させようと、坂元業衛(なりえ)、稲田安良(やすよし)、前田潔、松永犬三(けんぞう)、坂元鐘一らが中心となり、人形の修復などの準備を始め、翌年、会員16人で「山之口麗人形浄瑠璃保存会」を結成した。
 戦後、旧満州から引き揚げてきた鐘一は、8代目語り太夫であった叔父・業衛から文弥節を習った。満州で音楽教師をしていた彼は、台本に音符を書き込むなどの工夫を重ね、周囲も感心するほどの語りを習得した。保存会結成後は叔父とともに文弥節を語った。
 保存会の芸能部長になった鐘一は積極的に継承活動した。1952(同27)年には演目の「出世景清」と「門出八嶋」の台本を筆写し、1966(同41)年には鹿児島県に同種の人形浄瑠璃が伝承していることを知り、会員3人と調査した。翌年、早稲田大学杉野橘太郎教授の浄瑠璃調査にも積極的に協力した。
 1972(同47)年には山元政行とともに杉野教授と文化庁を訪問、1982(同57)年には人形浄瑠璃継承の功績で県文化賞を受賞した。
 戦後の浄瑠璃復興の中心的役割を果たし、歴代会長を補佐し、会員の指導や人形の保管に努めた9代目語り太夫・坂元鐘一は、1987(同62)年に亡くなった。(前田 博仁)
メモ
◎山之口麓文弥節人形浄瑠璃
 山之口町麓に伝承されている一人遣いの人形芝居。かつて地元では「府本(麓)の人形まわし」といっていた。文弥節は江戸中期大坂の岡本文弥が始めた浄瑠璃である。
 保存会は1826(文政9)年の写し「出世景清」の台本を所蔵しており、江戸後期からの伝承を裏付けている。
 演目は「出世景清」「門出八嶋」の二曲七段、間狂言として「太郎御前迎(たろごぜむけ)」「東嶽猪狩(ひがしだけのししがり)」の2番、「娘手踊」1曲があり、1992年に建設された「人形の館」で定期に上演している。
 1961(昭和36)年、山之口村の無形文化財、1969(同44)年、県の無形民俗文化財に指定された。1992(平成4)年には早稲田大学内山美樹子教授らによる総合的な調査・記録が行われ、1995(平成7)年、国の重要無形民俗文化財に指定された。


坂元鐘一の写真
坂元 鐘一







文弥節人形浄瑠璃の写真
国の重要無形民俗文化財に指定されている山之口町の文弥節人形浄瑠璃

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