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●穏やかな作風を確立 |
1918(大正7)年高崎町で生まれた。
実技は向学心の強い女の子であった。特に描画を得意とし、友達からいつも「実ちゃん、絵を描いてくれ」とせがまれていた。
旧都城高等女学校在学中に、父親の転職により現北九州市に転居したが、暇を見つけては絵を描いていた。そんな折り、日本画の展覧会を見て非常に感動し、画家になる決心を固めた。反対する父親を説得して上京、田中青坪に師事し日本画の修行を始めた。
しかし1943(昭和18)年、太平洋戦争が激しくなったため、故郷の高崎に疎開し、働きながら暇を見つけては制作に打ち込んだ。そのころ精魂込めて完成させ、東京の展覧会に発送した作品が途中の駅で止まり、肝心の会場には届かなかった。それが自信作だっただけに、悲嘆は大きく、地方では絵を描いてもだめだと自覚し、日本画の盛んな京都に向かった。ここでも懸命に制作に励み、創造展、新制作展などに入選するほどの実力を身に付けた。
1952(同27)年、目標にしていた日展に入選し、これを機会に東京に転居、日展理事の中村岳陵の門下生となった。以来日展に連続入選するようになり、名実ともに日本画家として活躍をするようになった。
1970(同45)年自分の身体ががんに侵されていることを知ったが、絵筆を離さず、病状は悪化した。そこで高崎町に帰り、療養に専念したが、1972(同47)年将来を嘱望されつつ53歳の生涯を閉じた。
日展最後の入選作「苑」は県立美術館に収蔵されている。穏やかな作風の中に作者の強い意志を感じさせる秀作である。(家中 史悟) |
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◎絵にかけた人生 |
彼女は、生来絵を描くことが好きであり、生涯絵筆を離すことがなかった。
1970(昭和45)年、自分の身体に異常を発見、乳がんであった。早期のものであるため手術をすれば治ゆするものだといわれ、身内の勧めで手術することになった。
入院した彼女は、乳がんの手術を受けて腕が動かなくなった患者がいるという話を聞いて決心を変えた。
右腕が動かなくなって、絵が描けなくなることを心配して手術を断念し、絵筆を握り続けた。このことが、彼女の余命を2年しか残さなかった。
まさに絵にかけた人生であった。 |
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児玉 実枝 |
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日展最後の入選作「苑」。穏やかな作風の中に強い意志を感じさせる(県立美術館所蔵)
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