神戸美和(かんべみわ)1892(明治25)年〜1986(昭和61)年


●本県女医界の先駆け
 1892(明治25)年、現鹿児島県高山町で医業を営む吉川正左衛門とタケの長女として生まれた。父の反対を押し切り、1912(同45)年単身上京し、東京女子医学専門学校に入学した。伯爵家に飛び込みで下宿を頼み込むなどのエピソードが語り継がれている。1916(大正5)年に同校を卒業し、三木慈善病院、順天堂病院、赤坂病院など当時の有名な病院で研修し、1919(同8)年に内務省の医師開業試験に合格、さらに1年東京で修業した後に帰郷した。
 父を助けて診療に当たる美和を宮崎県福島町(現串間市)の実業家神戸驥(き)三郎が見初めて結婚、夫の仕事場である鹿児島県内之浦で診療所を開業した。ところが、昭和恐慌により夫の会社は倒産、1931(昭和6)年、一家は宮崎市へ移住し、美和はここで診療所を開いた。本県で開業した女医としては2人目に当たる。1942(同17)年には夫を病気で失い、さらに戦災によって家財のすべてを焼失するなど不運の時代が続いた。
 戦後間もなく、結成されたばかりの宮崎市婦人連絡協議会の初代会長や、県婦人連絡協議会の副会長に就任。診療だけでなく、社会奉仕や福祉活動にも力を注いだ。その業績が認められ、1969(同44)年、勲五等宝冠章を受章し、晩年まで診療を続けた。
 20歳で単身上京し、医師となり、数々の困難に打ち勝った美和が社会人としてまた家庭人としてその人生を終えたのは93歳の時であった。本県女医界のまさに先駆者であり、最長寿者でもあった。(田代 学)
メモ
◎本県医学会の女医たち
 美和が宮崎市で開業した昭和初期のころの女医は志村美代、若山静、甲斐ヤマそして美和をいれてわずかに4人。そして10年後の1942(昭和17)年でさえ6人に過ぎなかった。また本県生え抜きの女医は1963(昭和38)年に産婦人科を開業した弓削セツ子であるが、3年後に急逝した。
 黒木清次著「日向のおんな」によると、美和の東京女子医専時代の恩師・吉岡弥生は「女医には、男医の到底及ばない細心の度胸と優雅さがある。この特徴を生かしてしっかり医療に励むべきである」と常々述べていたという。美和はこの言葉を実践すべく医療の道に励んだ。


神戸美和の写真
若いころの神戸美和







診療所の写真
本県2人目の女医として、神戸美和が宮崎市に開いた診療所(1937年撮影)

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