沢武人(さわたけと)1922(大正11)年〜1982(昭和57)年


●民俗学の研究に没頭
 沢武人は教育と研究を両立させた、まれにみる行動派の人であった。そのフィールドは県内全域に及び、民俗事象の背景を問う暮らしと文献を切り結ぶ手法は手堅く、多くの著述を生んだ。教職を離れた彼は仮設を立てその実証のためには、ほとんど寝食を忘れるほどの仕事ぶりで、昼間は実地踏査、夜間は遅くまで史資料整理に没頭した。そうした無理がたたり、平成の世を見ることなくこの世を去ったが、その業績はますます高く評価されつつある。
 目線の高さの庶民性が愛され、大いに地域の人々に歓迎された。「古事記と魏志倭人伝と」(宮崎県地方史研究会『会誌』創刊号)の論考の中にも、「学問は厳しくなければならないし、それはまた当然なことである。そのこと自体は肯定しながらも、夢を追うロマンチシズムが私の心の中にあることも否めない」と書いている。この情熱こそが、彼の実証精神の根幹にあった。1946(昭和21)年国学院大学高等師範部(国文学専攻)卒業、以降県立高校教諭を勤め、1969(同44)年、高千穂高校教頭、2年後に県総合博物館学芸課長。退職後は県立図書館嘱託として『宮崎県史料』刊行に尽力した。
 今日活字で読める「高千穂採薬記」(『日本庶民生活史料集成』第12巻所収・三一書房)は、敬愛した歴史家野口逸三郎との共同作業で収録された。また、県総合博物館在任期に手掛けた研究調査の記録は、同館刊の「研究紀要」「研究資料」などに収載。さらに第1遺稿集ともいうべき『北川村郷土史料集』は北川町の刊、第2回『高千穂採薬記の周辺』は、彼の仲間たち北斗会の刊。(山口 保明)
メモ
◎筆耕と焼酎びん
 沢が高千穂高校に赴任するや、陣内遺跡をはじめとする早朝の表面採集が始まった。日曜日ともなると、愛用のカメラを肩に50ccのバイクにまたがり、各集落へ出かけての“聞き書き”と文献調査。
 教頭職に就いた彼は、学校の留守居役。夏休みでさえも出勤が常態であった。机上には『岩戸庄屋日記』や『矢津田日記』のコピーと写真。文字拡大鏡を片手にガリ版による筆耕作業。机の下には、ひそかに置いた焼酎の一升びん。たまにちびり、一服の清涼剤。大変な愛飲家。こうして生まれたのが、『民俗資料緊急調査報告書−高千穂地方の民俗−』(県教育委員会刊)であった。
 沢の息考古学の皇臣は、父に触れて「高千穂高校、県立総合博物館と勤務地が変わり、主として民俗学に力を入れておりましたが、その基礎となったのは、やはり北川での民間伝承などの聞き取り調査によるものでした」と語っている。


沢武人の写真
高千穂高校教頭時代の沢武人







ふるさとの家の写真
沢武人の教育、研究生活の出発点となったふるさとの家(北川町)

目次へ
92 神戸 美和のページへ
94 比江島 重孝のページへ