中村林太郎(なかむらりんたろう)1890(明治23)年〜1971(昭和46)年


●フェニックスの育ての親
 宮崎観光のシンボルとなっている、フェニックスの育成に、その生涯をかけた中村林太郎は、福岡県に生まれた。1916(大正5)年、宮崎市に移住し大和町に中村園芸場を設立、造園や花木の育苗を始めた。とりわけフェニックスの栽培には、並々ならぬ努力を傾注した。
 当時青島近くの畑で苗木の栽培をしており、日南海岸を見るたびに、異国情緒あふれる南国のイメージを膨らませ、この景色にマッチした並木を造りたいという強い思いに駆られた。
 そうしたある日、ハワイに住む妹の白石さかえから、フェニックスの並木を写したクリスマスカードが送られてきた。それを見るなりこれだと直感し、さっそく種子を取り寄せた。
 しかし、何度畑に植えてもいっこうに発芽せず、やはり駄目かとあきらめかけていた5年目、ついに地表から青い芽がのぞき希望の灯がともった。
 やがて時代が昭和に変わり、フェニックス栽培は軌道に乗るが、大陸での戦火の拡大に伴って、「園芸より食料増産」の世相となり、肩身の狭い思いをさせられた。そして迎えた戦後、ハネムーンブームによって県の観光は飛躍し、彼が育てたフェニックスは、当時の岩切章太郎らの協力で日南海岸や橘公園に植栽され、南国日向の演出に大きな役割を果たした。
 さらに1966(昭和41)年には、郷土を代表する県の木に選ばれ、またテーマソングとも言える「フェニックス・ハネムーン」が大ヒットし、さらに知名度を高めた。こうしてフェニックスとともに半世紀を歩き続けた中村林太郎は、1971(同46)年、81歳の人生を宮崎市で閉じた。(原田 解)
メモ
◎フェニックスは命
 温和な人柄で、業界や県人会の世話役を務め、だれからも親しまれる一方、明治生まれの気骨もまた、持ち合わせていた。
 戦争が激しさを加えてきた頃、軍部から施設や基地の偽装用に、フェニックスを供出するよう、厳しい命令を受けるが、「この木は私の命だ」とかたくなに断り、フェニックスを守り通した。それほど思いが深かったのだろう。
◎南国の夕映え
 色とりどりのロンブルが並ぶ橘公園の真向かい、大淀川を隔てた堤防沿いに、美しいフェニックス並木が見られるが、これは中村林太郎が宮崎市に寄贈したもので、夕映えのシルエットがとりわけ素晴らしい。
 なお民間放送が企画した、全国各県を代表する、イメージ・サウンドとして、宮崎県からフェニックスの葉ずれの音が選ばれている。南国の夢を誘う音でもある。


中村林太郎の写真
中村 林太郎







フェニックス並木の写真
大淀川河畔のフェニックス並木

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