平原美夫(ひらばるよしお)1911(明治44)年〜1975(昭和50)年


●本県初の甲子園出場
 1954(昭和29)年、高鍋高校野球部を率いて甲子園に初出場し、100万県民を喜ばせたのが平原美夫である。当時、マスコミのクイズ番組では「甲子園に出場していない県はどこの県か」と、出るほど野球後進県であった。現東郷町に生まれ、小学校時代からピッチャーとして活躍し、宮崎師範時代には豪腕投手として既に近県に名をはせていた。また、幼少より絵がうまく、師範卒業後2年間、都農小学校に勤務したが、師・有田四郎の勧めで上京、本格的に絵画の勉強に専念した。1936(同11)年には文展(現日展)に宮崎県から初入選を果たした。
 1939(同14)年旧制延岡中学校美術教師として帰郷、野球部監督を務めた。1947(同22)年、旧制高鍋中学校に転勤、野球を通して高鍋高校を全国的に知らしめる存在となった。荒廃した戦後社会に生きる青少年に、光と夢を与え、協力和合、自主独立の気持ちを持たせるには、スポーツ、とりわけ野球が最適と考え、白球による青少年の教育に情熱を傾けた。そして、その深く温かい愛情と、厳しい鍛錬、鋭い洞察力のもとに、野球・美術の分野に多くの人材を育成していった。
 定年退職後は、精力的に絵画制作に打ち込み、自分の絵画世界の確立に没頭していたが、夢いまだ実らぬまま1975(同50)年高鍋町の画室にて永眠、64歳であった。
 なお、文展入選の「ビロー樹」は、県教育会館講堂に展示してある。また、1987(同62)年鍋高校野球OBを中心とした有志の計らいで、高鍋町営野球場に平原美夫胸像が建立された。(石井 秀隣)
メモ
◎夢の選抜出場
 平原監督の率いる高鍋高校は、1950(昭和25)年秋の九州大会で準優勝した。しかし、過去、県下に実績がないということで高鍋に負けた小倉高校が出場し、平原美夫は初出場を逸した。
◎文展初入選
 当時、王子中学校美術教師だった彼は、作品を上野美術館まで総子夫人と2人で大八車で運んだという。夫婦で大八車を引く姿が目に浮かぶ。その後も、2人3脚、総子夫人なくして高鍋時代の野球もなかった。
◎酒豪
 文展初入選の祝賀会では、椀の蓋で60杯の酒を飲んで皆を驚かせたという逸話がある。彼は亡くなる前日、5名の知友と共に酒席を持ち12時間飲み続けた。このようなことは初めてのことではなかった。


平原美夫の写真
名監督だった平原美夫







高鍋チームの写真
本県で初めて甲子園に出場し、堂々と入場行進する高鍋チーム

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