児玉英水(こだまひでみ)1914(大正3)年〜1945(昭和20)年


●舞台にかけた「青春」
 児玉英水は戦前に活躍した、郷土出身の舞台プロデューサーである。教育者だった児玉章の長男として、西都市三宅に生まれ、地元の小学校から旧制の妻中学校へ進んだ。持ち前の明るくこだわりのない性格から、クラスメートの人気が高く、スポーツ面でも活躍し注目を集めた。一方、芸事に堪能だった母親の血を引き、音楽や芝居にも興味を持ち、よく映画館や芝居小屋に通った。この資質が後に大きく開花する。
 法政大学法学部に入学したものの、1939(昭和14)年のノモンハン事件に出兵、九死に一生を得て帰国する。間もなく恩師の勧めで東宝に入社、日劇の企画に配属された。そして率直な性格と男性的な風ぼう、それに仕事熱心さが上司に認められ、翌年上演される紀元2,600年奉祝、第81回日劇ステージショー、「民族舞踊・日向」の、プロデューサーを任される。当時としては異例の抜てきだった。
 彼は準備のためスタッフを伴って宮崎入りをし、県内各地を回って民謡や郷土芸能を調査、これらをもとに全5景の舞台を構成した。
 こうして戦前版ミュージカルの「民族舞踊・日向」は、紀元2,600年の奉祝ムードが盛り上がった、1940(同15)年11月、日劇で華々しく幕を開け、1カ月にわたるロングランで、17万人もの観客を集める大ヒットとなる。また県民もこぞってこの成功を祝った。
 しかし喜びもつかの間、1943(同18)年に報道班員としてマニラに渡り、終戦を前にした1945(同20)年7月20日、将来の大成を嘱目された児玉英水は、31歳の若さで戦火の中に姿を消す。舞台そのままの戦争を駆け抜けた青春であった。(原田 解)
メモ
◎李香蘭と英水
 満映(かつての満州における国策映画会社)を中心に活躍していた、銀幕のスター李香蘭が、初めて日本の舞台を踏んだのは、1941(昭和15)年2月11日の「歌う李香蘭」だった。このショーは人気を呼び、押し寄せたファンが日劇を取り巻く、いわゆる7回り半事件が発生、警察官が出動して取り締まりに当たった。
 その騒ぎの際彼女を身の危険から守り、公演期間中エスコートしたのが英水だった。心細い思いの彼女がその男気にひかれたのは、当然の成り行きだった。自叙伝『李香蘭・私の半生』の中で彼女は、英水が出征する前夜、2人して暗い東京の町を歩き続けたことや、東京駅頭で人知れず見送ったことを回想している。
 李香蘭は後に「もし児玉さんが生きていたら、あの才能と人柄で、ユニークなプロデューサーとして、素晴らしい仕事をされたでしょう」と、関係者に語っている。


児玉英水の写真
児玉 英水







民族舞踊・日向の写真
1940年、日劇で上演された「民族舞踊・日向」1カ月のロングラン、当時観客17万人を集めた

目次へ
96 平原 美夫のページへ
98 奈須 敬二のページへ