広島庫夫(ひろしまくらお)1928(昭和3)年〜1996(平成8)年


●マラソン界の先駆者
 マラソンに30回出場して7回優勝、さらに五輪連続出場を果たした広島庫夫は1928(昭和3)年に、東臼杵郡北郷村に農家の8人兄妹の4男として生まれた。地元の高等小学校を卒業と同時に44(同19)年、山口県防府海軍通信学校に入学。卒業間もなくマニラの戦地へ赴いた。
 1945(同20)年12月復員。しばらく、大工の修業をし現場までの行き帰りを走った。また仕事を終えてから地下足袋を履き村内1周をしたり、宇納間地蔵の石段を登り降りして練習を重ねた。
 1949(同24)年、県青年大会と全国青年大会(山口)優勝、さらに第4回国民体育大会(東京)5,000メートルに出場。オリンピック候補選手と走り2位に入賞。この成績が認められ、また「戦争には負けた。これから外国に勝つためにはマラソンしかない」、マラソンの大先輩金栗四三の言葉に励まされ、同年12月旭化成に入社した。入社後「理屈より実行あるのみ」をモットーに、独自の練習で延岡から川水流、愛宕山1周コースなど毎日25キロを超すハードな練習をこなした。
 西田勝男、浜村秀雄、山田敬蔵、貞永信義、小柳舞治選手の強豪が出場した金栗賞朝日マラソン大会で5位に入賞。その後、別府・大分マラソンに2回、大阪毎日マラソンに3回優勝。特に1955(同30)年から金栗賞朝日マラソンは国際大会に変わり、外国からも強豪選手が出場するようになったが、彼はこの大会で2回優勝を飾った。なかでも、カルボーネン(フィンランド)との24キロからの大接戦は、今も語りぐさとなっている。
 小柄で胸幅が分厚く肩を左右にゆすって、前へ前へ進むがむしゃらな走法は、マラソンファンからは「重戦車」と親しまれた。本県マラソン界のパイオニアになった。(広島 日出国)
メモ
 1955(昭和30)年の第9回朝日国際マラソン。この年から「国際」の文字が大会名に加わり、名実ともに強豪の集まる国際レースになった。ヘルシンキ五輪5位、ボストン、欧州選手権の2レースを制したカルボーネン、ボストン2位のブルッキネンら4人が招待された。レースは5キロ17分3秒、10キロ。34分10秒とややスローぺースで、15キロからペースが上がり、20キロを広島、カルボーネン、ブルッキネン、宇和、ニーベリと続き、中間点は広島がトップで1時間11分。好記録になり、3人が脱落して、24キロから広島とカルボーネンの勝負になった。
 広島が前に出る時が多く、カルボーネンは懸命にこらえる。20キロから35キロペースは落ちない。広島は振り切ろうとするが、相手もなかなか離れない。39キロの呉服町の右折が勝負のポイントとなった。インコースを取ったカルボーネンがわずかにリードすると勝負に出てスパート、広島は惜しくも2位となった。


広島庫夫の写真
第9回朝日国際マラソンで2位になったときの広島庫夫







石段の写真
復員後、広島が旭化成に入社する前に練習していた宇納間地蔵の石段

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