村社講平(むらこそこうへい)1905(明治38)年〜1998(平成10)年


●陸上競技に一生貢献
 1936(昭和11)年のベルリン五輪の陸上代表として、5,000、10,000メートルでともに4位と、日本人として初めての入賞を果たし、小柄な体に似合わぬ力強い走りから、「和製人間機関車」と呼ばれた村社講平は、宮崎市赤江で生まれた。宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代は、テニス部だったが、ロードレースで優勝したことから、陸上にかける人生を歩き始めた。当時わが家から往復走って通学した話は、よく知られている。中学卒業後県立図書館に勤務し、陸上競技を続けているうちに素質を認められ、27歳で中央大学に進学。人一倍の練習によって実力を伸ばし、次々と陸上の日本記録を塗り替えた。
 そして在学中に迎えたベルリン五輪に、日本陸上の代表として出場。決勝では当時長距離王国を誇っていた、フィンランドの3選手を相手に積極的なレースを展開、デッドヒートの末残り1周となって力尽きた。5,000メートルで14分30秒の五輪タイ記録を、また10,000メートルでも30分25秒の好記録を出したものの、結果は4位に終わった。しかしその爽やかな戦いぶりに10万人もの観衆は大声援を送りたたえた。
 現役引退後は新聞社の運動部記者として活躍する傍ら、1956(昭和31)年のメルボルン五輪のマラソンコーチ、1964(同39)年の東京五輪の強化コーチを務め、円谷、君原、寺沢ら一流選手を育てた。
 故郷宮崎への貢献も大きく、旭化成の広島庫夫選手の指導や、県内の子供たちとの走ろう会など、後継者の育成にも意を注ぎ、自らも亡くなる前までジョギングを続けた。スポーツ史に輝かしい1頁を印した小さな巨人は、平成10年7月8日、92歳の天寿を全うした。(原田 解)
メモ
◎民族の祭典
 ベルリン五輪はヒトラーにとって国威発揚と、世界に向けて情報を発信する、絶好のチャンスだった。そのため彼は女性監督リーフェンシュタールを起用し、大会の記録映画を製作させた。そしてここから、1つの競技を複数のカメラで追うという、斬新な手法を使った、スポーツ・ドキュメンタリーの名作、「民族の祭典」が生まれる。
 数々の迫力あるシーンの中で最も目を引くのは、10,000メートル決勝での村社選手の活躍ぶりである。長身のフィンランド選手に包まれても、変わらぬぺースで首位を行く小柄な村社選手、波を打つ観客のムラコソコール。残る1周で力尽きるものの、その力走は実に感動的である。
◎人生の座右の銘
 彼は色紙に何かを求められると、決まって「走即人生」「オリンピックの覇者に天才無し」と書いた。人一倍努力を重ね、ひたすら走り続けた人生に、ふさわしい座右銘である。


村社講平の写真
村社 講平







宮崎国体での写真
宮崎国体で赤江小の児童を先導する村社(1979年)

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