序文
明治期


 明治の日本は西欧から新しい知識、制度、技術を取り入れて、西欧型の近代国家をつくることを目指し、短期間にそれをなし遂げた。
 殖産興業による富の蓄積、政治制度による国民のエネルギーの吸収、教育制度による国民の開明などの諸改革を進めた。しかし、日本の西南端・日向には大商人や豪農と呼ばれるほどの階層は成長しておらず、資本主義を導く資本の本源的蓄積の過程が貧弱であった。周囲を山地に囲まれ、東に開けた海岸は良港に乏しく、中央から見ればまさしく僻遠の地であった。
 明治の御一新になっても、暮らしは楽になる兆しも見えず、明治2年から7年にかけては、高千穂、佐土原、高鍋、都城などで一揆が相次いだ。「旧習ヲ墨守(ぼくしゅ)シテ…時勢ノ変化ヲ知ラズ」の状態を続けながら、明治10年(1876)西南戦争に巻き込まれた。旧藩域からおよそ3,000人の若者が西郷軍に馳せた。県域全土が戦場となり人的、物的損害も多大であった。
 藩政から県政に移行する過程の遅れと、西南戦争の混乱は、近代化に大きな支障となった。
 今日の宮崎県の原型は、明治16年(1883)鹿児島県からの分県独立でスタートした。
 この時期から宮崎県という地域的一体感が生まれ始めた。明治18年、師範学校が開校して本県教育界に曙光がさした。この後、中学校、女学校、農学校などが開校していった。
 明治末期、日向水力発電が企業として現れ、鉄道敷設を促進する機運も漸く高まった。しかし、財政の確立、道路網・港湾の整備、教育の振興など課題は山積していた。本県の移出は農林水産物が主で、付加価値を伴う生産は未成熟であったが、近代宮崎県の鼓動は高まった。


旧県庁舎の写真
旧県庁舎
1874(明治7)年ごろ


西米良村の写真
西米良村 小川囲の集落

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