みやざきの神話と伝承101ロゴ
1 行縢山の伝説
 
 
 
       
  ●討伐物語地名に残る
 延岡市の西端に、ひときわ目立つ2つの岩山がある。東を雌岳(809メートル)、西を雄岳(830メートル)という。この2つの岩山から成るのが行縢山である。
 今から2千万年以上も前、新生代の地質時代に、花こう岩の山塊が盛り上がって大崩山が生まれ、その南側に生じた亀裂に、花こう岩脈が噴き出して行縢山ができたと言われている。
 その険しい2つの岩峰の間に滝がある。今にも落ちてきそうな絶壁の山容は、威厳に満ちて人を寄せ付けない雰囲気を感じさせる。
 日本書紀によると、第12代景行天皇は、西に熊襲(くまそ)を討ち、東に蝦夷(えぞ)を平定して、大和朝廷の勢力を広げた英雄である。これに対し、古事記では全く趣が異なり、統一期の事跡は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語となっている。
 ところで、景行天皇が熊襲を討つためにヤマトタケルを今の九州に当たる筑紫に派遣した。そのころ、行縢山にカワカミタケルという勢力のある者がいて、人々から多くの貢ぎ物を取り上げて暮らしていた。
 ヤマトタケルは、討伐のため、船を今の延岡市の東海の港に乗り入れた。すでに日が暮れかけていたが、ミコトの意思が通じ、日はしばらく西の山の端にかかって沈まなかった。ミコトはこの山が馬に乗るときの防具・縢(はき)の形に似ていることから、行縢山と名付けたという。
 ミコトは勇気を得て、行縢の近くの舞野村というところまで来た。そこの野添というところに居を置いて、7日の間とどまり、カワカミタケルを討つ策を練った。
 このとき、雄岳と雌岳の間の滝が落ちるくぼみが、矢筈(やはず)の形になっているので、矢筈と名付けた。また、水の落ちる姿が白布を引くように見えるので、布引きの滝と呼んだと伝えている。
 ミコトはやがて美少女に姿を変えて、カワカミタケルの館に入り、酒宴の中でタケルの油断を誘い、討ち果たすことができた。ミコトは大事を成し遂げて豊後国(大分)に帰った。人々はミコトが居を置いたところを武宮と呼ぶようになった。日本書紀のヤマトタケルの物語が、地名伝説となって残っている。
 養老2(718)年の創建と伝えられる行縢神社は、熊野権現を勧請(かんじょう)したと言い、イザナキ、イザナミ、ヤマトタケルなどの神々を祭っている。  
甲斐亮典
 






行縢山の写真
行縢山。
雄岳(左)と雌岳から成り、威厳が漂う

       
 
 
 

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