みやざきの神話と伝承101ロゴ 13 神門神社と百済王伝説
 
 
 
       
  ●24面の鏡や神事残す
 昔、朝鮮半島の古代国家・百済から王族が日本に亡命、日向の国に漂着したとする伝説がある。南郷村・神門神社の社伝によれば、孝謙天皇の天平勝宝8(756)年ごろのことという。
 王族の一行は2そうの船に乗って瀬戸内海に入り、安芸の国(広島)の宮島に着いたが、追っ手を恐れて筑紫(福岡)に向かった。船はあらしに遭って流され、1そうは日向の金ケ浜、1そうは高鍋の蚊口浜に漂着。金ケ浜が禎嘉王一行、蚊口浜がその子・福留王の一行であった。
 禎嘉王らは、すぐに向かうべき土地を占ったところ、西方7、8里によい土地があると出たので、そこへ向かった。着いたところが神門であったという。一方、福智王らも占った。西方に比木(木城町)という土地があることが分かり、そこに落ち着いた。
 禎嘉王らが西に向かう途中、お産をする女性がおり、子どもを生んだ土地を「おろし児」、その子を洗ったところを「児洗い」と呼ぶようになった。また途中乳母が亡くなったところが、「乳母が森」であるという。
 やがて本国から追っ手が入り、禎嘉王らのいる神門に迫って来た。南郷村の入り口に近い伊佐賀の戦いは最も激しく、王の次子・華智王は戦死、禎嘉王自身も流れ矢に当たって亡くなった。比木にいた福智王も急を知って小丸川に沿って渡川から鬼神野を経て神門に入り、父王を助けて戦った。
 苦戦したが、土地の豪族「どん太郎」が食料や援軍を出してくれ、ようやく追っ手を撃退することができた。今でも伊佐賀の土が赤いのは、戦死傷者の血が染みついたからだという。禎嘉王を葬ったところを「塚の原」と言い、古墳がある。この王をまつったのが神門神社である。福智王も比木の人々に崇敬され、後に比木神社にまつられた。神門神社と比木神社は密接な神事も伝承している。
 神門神社には、王族の遺品とされる古い鏡24面がある。その中には奈良の正倉院の御物と同一のもの、東大寺の大仏台座下出土鏡と同形のものなどがあって、王族伝説を単なる空説として無視できないことを示しているように思われる。
 王族亡命を歴史の事実と照合するのは困難であるが、類似の伝説が田野の天建神社にもある。こちらでは、百済王の船は油津に着いたと伝えている。鵜戸神宮を関連の地とする説もある。
甲斐亮典
 






神門神社の写真
神門神社。
百済王族の遺品が残る

       
 
 
 

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