みやざきの神話と伝承101ロゴ 20 可愛山陵
 
 
 
       
  ●ニニギノミコト葬る
 明治7(1874)年、維新政府は日向3代の神陵を定めた。それは旧薩摩藩の学者の主張を根拠に、明治初めの鹿児島の政治力を背景に同県内に定めたから、以後、南九州各地に伝わる3代の神陵の伝承地についての活発な反論が出されることになった。
 「アマツヒコヒコホノニニギノミコト」の御陵「可愛山陵」についても同様で、政府はその反論に逆らえず、同29(1896)年、北川町俵野可愛を「御陵伝承地」、西都市西都原を「御陵墓参考地」と定めた。
 同16(1883)年、可愛山陵について、当時の宮内省職員2人の記録「日向埃山陵」(宮内庁書陵部所蔵)は次のように述べている。
 日向の埃の山陵は日向国臼杵郡長井村俵野門(かど)にある。「可愛山陵」は神代、ニニギノミコトの崩御で、筑紫の日向の可愛(可愛は埃(え)と読む)の山陵に葬ったもので、「諸陵式」には日向国にあって、陵戸(墓を守る人)はない、とある。今は薩摩国高城郡水引の宮内村八幡(川内市宮内・新田神社)を祭る山を御陵と定めているが、日向の人々の反論があった。日向国臼杵郡長井村俵野門に1つの古墳があって、これが御陵に「射当(あたる)」のは明らかである。
 この地は、可愛岳の東麓、俵野門のうち字は「可愛良(えら)」で、「経塚」と呼ばれる古墳がある。周囲70メートル、高さ2メートルほどで、雑木が生えている。
 土地の古老によると、この古墳は昔は非常に高く、周りも広かった。子供たちがいつも塚の上で遊んでいた。北川の洪水の影響で、今のような小さな姿になったという。
 この塚から約550メートル北に15、6戸の集落がある。以前は可愛村といい、村の産土神(うぶすなかみ)である可愛神社はニニギノミコトを祭る。可愛村は今は俵野門と合併して存在しない。
 地勢をみると、可愛山東面から3筋の尾根が延び、中央の地は字で「可愛良」、山は可愛山とも、「エン嶽(えんだけ)」とも呼んでいる。「エン」は、可愛の地方なまりである。
 このことは、日本書紀や延喜式に見える「可愛(え)」地名が明らかに存在していたことを示し、諸書の記述とも符合する。宮崎の宮居から遠くない可愛山にニニギノミコトを葬ったことを示すものであろう。
 「日向埃山陵」はこのような見解を記している。
永井哲雄
 






可愛山陵参考地の写真
可愛山陵参考地。
深い木立の中で歴史を語る

       
 
 
 

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