みやざきの神話と伝承101ロゴ 21 可愛岳と可愛山陵
 
 
 
       
  ●「花米」を供え参詣
 北川町ではニニギノミコトの山陵について、国が指定している「伝説地可愛山陵」とは別に可愛岳(727.7メートル)を山陵とする伝承が古くからある。可愛岳は西南戦争で、西郷軍の鹿児島・城山への最後の敗走が始まるところである。政府軍もよもやここを越えるとは、と思ったほど険しい山である。
 可愛岳は行縢山とともに古代から信仰の山であった。天永元(1110)年の可愛岳に関する記録に、「年籠(としごもり)用途分」(年末に用意するもの)として「愛(エ)山正月1日鏡餅3枚 花米」とある。「花米」は神社参詣のとき神前に供える米のことである。八幡宮の神事、およびそのために用意しなければならない品物の目録に可愛山に供えるものが記されており、信仰の古さを知ることができる。
 頂に霊石(大岩明神)と岩のほこらがある。明和3(1766)年の正月16日、三左衛門という人がこの神を深く信仰して参詣していたところ、神のお告げで霊石を見つけ、それから人々が参詣するようになったという。
 長井村俵野における「御陵墓伝地」はニニギノミコトのご陵で、口伝によると人皇10代崇神天皇の65年、勅使をさし向けて以来、久しく朝廷の祈願所になっていた。その後、次第に衰退、陵がどこにあったかもわからないようになってしまった。
 高くそびえる可愛岳の頂上にある「鉾山」といわれている所を御陵墓であったとし、山腹に社殿を営んでいたこともあった。しかし、人々の参詣に不便なため、さらに社殿をふもとの「江」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」とあがめて奉仕してきた(明治15年「可愛神社并御陵墓伝説地に於ル沿革」)
 寛政4(1792)年7月14日、高山彦九郎(1747−93)は、可愛岳に登り、「筑紫日記」の中でこう記している。
 「可愛村に着く。北川でみそぎをする。石橋を渡り、鳥井を入る。壱丁余(約800メートル)登って行くと山間に可愛山陵大権現の社殿が南南東に向かって建っている。ニニギノミコトを祀る。西の山を可愛岳という。これを山陵と伝えている。可愛岳山上迄一里(4キロ)の登りである」
 大正3年、考古学者・鳥居龍蔵は可愛岳頂上の巨石群を調査。拝み石、鉾石、盤鏡などを一緒にして巨石遺跡とした。
永井哲雄
 






可愛岳頂の巨石遺跡の写真
可愛岳頂の巨石遺跡。
信仰の山らしい雰囲気が漂う

       
 
 
 

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