みやざきの神話と伝承101ロゴ 38 景行天皇と高屋行宮
 
 
 
       
  ●熊襲平定のため赴く
 景行天皇は、第12代の天皇である。紀(日本書紀)では、自ら熊襲(くまそ)平定のために九州に赴いたり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に東国の蝦夷(えぞ)を討たせたり、古代国家統一期の英雄として、その事績が詳しく書かれている。
 その概要を述べると―。
 景行天皇の12年7月、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、天皇は筑紫(九州)に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮(あんぐう)を建て、住まいとした。
 同13年5月、ことごとく熊襲の国を平定。すでに高屋の宮に居ること6年となり、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。
 17年3月、今の児湯郡である子湯県(こゆあがた)の丹裳小野(にものおの)というところで遊び、東方を望んで左右の者に言った。
 「この国はただちに日の出る方に向かっている」。それでこの国を日向と呼ぶようになったという。また、18年には夷守(ひなもり)に至り、諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)の接待を受けた。
 このように紀は、景行天皇親征の長い説話を取り入れ、日向にかかわりのある話題をいくつも展開している。ここから本県各地に多くの伝説が生まれた。
 西都市都於郡に、黒貫寺という古寺がある。16世紀の伊東義祐の全盛期には、日向第1の寺と言われた。17世紀以後の藩政期にも佐土原藩に崇敬された。
 この寺の境内が、景行天皇の行宮跡と伝えられる。寺伝によれば、天慶9(946)年、隆元という高僧が寺を創建したという。
 宮崎市村角の高屋神社の境内も「高屋の宮」の跡と言われる。また、綾町の錦原は景行天皇が錦の御旗を立てて賊を討ったところと伝えられている。
 景行天皇と日本武尊の伝説は各地で語られている。
 景行天皇は、実在性を疑問視されている天皇でもある。景行、成務、仲哀と続く天皇名がオオタラシヒコオシロワケ、ワカタラシヒコ、タラシナカツヒコ。タラシという語は7世紀の舒明(じょめい)、皇極天皇の名に含まれているので、これをもとに創出されたとする説もある。
甲斐亮典
 






黒貫寺の写真
黒貫寺。
高屋行宮跡と伝えられる

       
 
 
 

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