みやざきの神話と伝承101ロゴ 47 狭上稲荷
 
 
 
       
  ●疫病苦しむ群衆救う
 古くは肥後(熊本)・球磨郡から米良山中への道筋は、横谷から一里山峠を経て九州山地の尾根伝いに南下、狭上峠を通り、横野から越野尾へ通じていた。狭上はまさしく要衝の地であった。「サエ」は地名の語源からすると、山の上の方、または奥山を示し、難所で交通をさえぎる意味も含む。おそらく「さえの神」を祭り、のちに旅人を守護する「道祖神」をも祭っていたのであろう。
 狭上稲荷は、西米良村村所から西へ約10キロ。かつては2筋の参道があったが、昭和56年、縄瀬から源五郎峠を越えて作業道が開通、稲荷社への参詣も容易になった。鎮座地は標高約700メートルで、社と中武社司の屋敷があるだけ。冬にこの山岳社前庭から眺める雲海は見事である。
 同社の「由緒」、口伝によれば、29代欽明天皇のとき、疫病が流行、五穀も実らず、多くの死者を出した。そこで、倉稲魂(うかのみたま)の夢の中に稲荷神が現れ、困り果てた群衆を救ったという。1つの稲荷縁起譚(たん)である。
 それから時代を経て、4人の山岳修行者(山伏)が米良山に入り、狭上の東西南北に柴のいおりを結び、カズネ(葛根)、ヤマイモ(自然薯)、草木の実を食べ、木食の行を修めていた。4人の名は中山堂栄、煮田之尾勝法、山之左礼左近、西世法師と伝えられる。
 ある夜、西世法師の夢まくらに白髪の翁(おきな)が現れ、「われこそはオオヤマツミノミコトなるぞ。ここには自分の墓があるが、合わせて稲荷を祭れ。そうすれば、お前たちの子孫は末ながく栄えるであろうぞ」と告げた。
 お告げに従って、4人は陵の隣に稲荷社を建立した。すると数日後、稲荷神の使いである白キツネが現れ、ヒエ、クリ、大豆、小豆を夜ごと運び、4人の行を助けた。この伝承を裏付けるように、東面する鎮座地には、オオヤマツミの陵と言われる塚を中心に、従臣の塚が囲んでいる。この勧請(かんじょう)由緒には、「五行の思想」が浸透しているようである。
 その後、南北朝期に菊池の姓を隠し、米良と改めた米良佐太夫が入山、狭上の深山に隠れ住んだ。先祖の霊を同社に合祀(ごうし)、新たに社殿を造営、別当寺も置いた。社蔵の三鉾(みつぼこ)は佐太夫の名を刻み、菊池ゆかりの人々の参拝でにぎわった。往時の山岳文化の一端をしのぶよすがとしたい。
山口保明
 






降神祈願神事の写真
降神祈願神事。
歴史の重さが漂う

       
 
 
 

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