みやざきの神話と伝承101ロゴ 68 伝説・鬼玄丹
 
 
 
       
  ●自然相手に剣の修行
 寛永11(1634)年、伊賀上野(三重)鍵屋の辻で剣豪荒木又右衛門が義弟の渡辺数馬の助太刀をして、父のかたき河合又五郎を討つ。このとき、又右衛門が倒した4人のうちの1人に竹内玄丹がいる。その玄丹は綾の深山の洞くつに住み、「鬼玄丹」と言われていた。
 寛永6年、武者修行中の又右衛門は、旧知の佐土原藩武術指南役・諸口一宇斎を訪ねた。そのとき、法華嶽寺参拝を勧められ、法華嶽下門前(しももんぜ)に姿を見せた。又右衛門は傍らの標識を見ると、急ぎ足で上門前の参道へ消えた。
 ここ上門前に破れ法衣をまとい、腰に荒縄を巻き、素足で右手に六尺棒を握り、目は鋭く、あたかも仁王のような荒法師がいた。彼は又右衛門の前に立ちふさがる。「そこをのいてくだされ、参拝の者だ」と又右衛門が言うと、玄丹は大声で「名を名乗れ、われは当山きっての荒法師玄丹であるぞ」と応じ、2人の間に決闘が始まる。
 しかし、天下の柳生新影流の前には、さすがの玄丹も平伏。又右衛門は「本来ならこの場で切って捨てるところだが、寺の門前で殺生は好まぬ。心改めて仏門に励め」と諭して別れた。
 玄丹は試合に負けたのが悔しかったのであろう。その後、洞くつで自然を相手に剣の修行に励んだ。暮らしは米、麦、野菜に獣肉と川魚を炊き込んだものを常食とした。これが綾町に残る「玄丹鍋」の起こりと伝えられる。
 たまに腕だめしに、佐土原に出掛けた。当時の佐土原は商家が軒を並べ、にぎわっていた。薩摩藩の支藩で、剣客も集まっていた。玄丹は道場を荒らしたり、商家に押しかけ、無理を言っては施しを受けたりしたため、後年この所業が大げさに伝えられた。
 あるとき、玄丹は人吉へ修行に行った。ここで河合又五郎が旗本の手を離れ、九州へ落ちのびることを知った。途中、又右衛門などの襲撃が予想され、いま一度又右衛門に見参したいと、5年余りの洞くつ暮らしから京都へ上り、又五郎一行に加わった。
 又五郎は大阪から船で九州へ向かうと見せ、実は伊賀から伊勢のコースをたどった。その途中、鍵屋の辻の決闘となり、玄丹は深手を負って落命したのである。
 このとき、又右衛門は「心を改め、坊主として修行に励めと言ったのに、今度は容赦せぬぞ」と言ったという。
柄本章
 






玄丹が修行した洞くつの写真
玄丹が修行した洞くつ。
玄丹の執念の深さが漂う

       
 
 
 

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