みやざきの神話と伝承101ロゴ 69 「夷守」と景行天皇
 
 
 
       
  ●治安防備の重要な地
 小林市には景行天皇の伝承にちなんだ地が多い。「夷守(ひなもり)」や「石瀬河(いわせがわ)」もその1つである。
 延喜式の日向国駅馬の1つに「野後(のじり)・夷守・真斫(まさき)」とみえる。現在、夷守岳の山ろくに小林市細野夷守があり、今は限られた地を指すが、古くは、広く大きな地域を示していたらしい。
 「夷守」は、古くは辺境の地を守る人や場所、その役目を指し、都から遠くはなれた国の治安防備の上で重要な地に置かれていた。
 「魏志」の中にも「卑奴母離」とみえ、越後国(新潟)頸城郡(「比奈毛里」)などいくつか確かめられる。日向国のこの地も古代国家にとっては、重要な地であったことを示している。
 景行天皇12年、「熊襲」が背いて朝廷に貢ぎ物を差し出さないので、天皇は筑紫に入り、「碩田国(おほきたのくに)」から日向国に至り、行宮(かりのみや)を建てた。これを高屋宮(たかやのみや)という。
 そこで熊襲を討つことを謀り、13年5月に平定した。6年間高屋宮にとどまり、日向の佳人・御刀媛(みはかしひめ)を妃(きさき)とし、日向の国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子が生まれる。
 17年、子湯県(今の児湯郡)に旅して、そのとき「是の国は、直く(なお)日の出づる方に向けり」と言い、以来「日向(ひむか)」と称するようになった。その後、天皇は京をしのんで「思邦歌(くにしのびうた)」を残し、18年3月京に向かった。
 このとき初めて夷守を訪れた。「石瀬河」の辺りに多くの人が集まっているのを遠くから見つけた。左右の者に「あそこに集まっているのは何者だ。賊か」とたずね、兄夷守、弟夷守を遣わした。
 弟夷守が「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が大御食(おほみあへ=食事)を献上しようとして、その一族があのように集まっているところです」と報告。その後、天皇は「熊県(くまのあがた)」に向かった。ここに登場する夷守兄弟は、この地の豪族の者、泉媛は諸県君の一族であろうか。
 日本書紀によれば、景行4年に「日向髪長太田根(おおたね)」が天皇との間に日向襲津彦(そつひこ)を産む。そして御刀媛、さらに諸県君泉媛と日向に関係の深い女性が相次いで登場する。
永井哲雄
 






岩瀬川の写真
岩瀬川。
ゆったりした流れが往時をしのばせる

       
 
 
 

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