みやざきのうたと芸能101ロゴ 去川奴踊

 
●白鉢巻きで元気よく
 「去川奴(やっこ)踊り」は明治の初めころ、去川の岩見嘉太郎が鹿児島から師匠を招き、習い覚えたと伝えられる。
 本来は村の青年会が踊っていたが、1921(大正10)年ころから、子供が中心になって踊るようになった。
 白鉢巻きに水色の法被、黄色の帯を締め、白の股引に黒の脚半、白足袋わらじがけ、手甲をつけた手に扇子を持つ。
 三味線の前弾きに合わせて入場し、円形になり、次いで2列になり、唄(うた)に合わせて踊り、中程になると唄なしで激しく踊る。終わりはまた2列になって唄に合わせて踊る。出入りは三味線と太鼓に合わせる。
 踊り手は16人、伴奏は三味線1、太鼓1、拍子木1、唄い手1。
 16世紀末から17世紀初めのころ、勇将として知られる島津義弘に従っていた都城の武将・梅北国兼が、戦いに出陣したときに始めた踊りであると伝えられる。
 国兼は足軽大将だったので、「奴踊り」と名付けたが、奴は足軽と呼ばれた人たちのことだ。歌詞は明治初期に踊りが伝承されたころに作られたらしく、現代風である。
 淀の流れのこの去川に 秋も来たぞえ稔(みの)りをのせて 今日はうれしい運動会 老いも若きもあなたもぼくも 手拍子鉢巻き唄えや踊れ
 ほんににぎやかに 薩摩去川の御番所の庭に 淀に映した桜花 今日も奴がやって 来た
 現在の去川小学校付近に、旧薩摩街道の去川関所があった。御番所と呼ばれていて、今もその礎石が残る。歌詞の御番所はそのことである。
 かつては青年たちが中心になり、村祭りを盛り上げていたものだろう。
 高岡郷には弁慶踊、相撲踊、唐人踊、棒踊、小臼太鼓踊など多くの芸能が伝承されていて、地域の特色を生み出していたが、若者の減少とともに衰退した。
 特色ある芸能としてはほかに浦之名の「城攻踊」、田之平の「バラスデコ踊」などがある。バラスデコは臼太鼓のことである。
 去川の奴踊りと浦之名の城攻踊は保存会が中心となり、小学校の児童が伝承。奴踊りは南九州各地に、城攻踊は田野町でも受け継がれている。
甲 斐 亮 典
メモ
 去川奴踊りは小学校の運動会で踊られている。毎年4月中旬に行われる「ふるさとの民俗芸能まつり」に、宮崎市と周辺6町の民俗芸能が出演するので、その機会に出ることもある。同まつりについては同市文化振興課、「去川奴踊り」については高岡町教委へ。





去川奴踊の写真
奴姿で元気良く
「去川奴踊り」を踊る子供たち
(みやざき民俗芸能まつり)


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