みやざきのうたと芸能101ロゴ 六日町俵踊

 
●天領本庄繁栄の名残
 豊年満作の米俵を、港で船に積み込む、活気に満ちた状況を表した都ぶりの踊りである。
 そろいの仕事着を着け、向こう鉢巻き。手に俵とうちわを持って威勢よく踊る。俵を担いで運んだり、手渡ししたり、積み上げたり、船積みを終えての酒盛りまで12段から成る。
 黒の腹当てを着け、米の字と小槌(こづち)をデザインした衣装を着て、帆布地の前掛け、手甲、脚半姿。俵は繭形に作った枕(まくら)ほどの大きさ。豆絞りの手ぬぐいは、鉢巻きにしたり首に巻いたりする。
 楽器は三味線数張、大太鼓1、小太鼓2、鼓1、摺鉦(すりがね)1で構成。かつては、鳴り物は長台の荷車の上に組み立てた桟敷を使った。
 唄(うた)は
 御代はめでたのなあ 若松さんさまよ
 沖の大船なあ 磯端で33反の帆を巻き上げて おもかじ とりかじ 沖あらし
などと歌う。33反の帆は千石船のことだ。
 三味線の前弾きから始まって、唄にははやしが入る。2人1組となり、15〜20組で踊る。「俵踊」と称する踊りは県内各地にあるが、中でも国富町六日町に伝承されているものは、地元民によって「六日町正統俵踊り」として受け継がれている。
 この地方は18世紀中ごろから天領(幕府直轄領)となって栄えた。宮崎平野の中央部にあって地の利が良く、大淀川とその支流・本庄川の舟運にも恵まれた。このため商業で資力を貯える商人が輩出した。
 文政のころ(1818〜29年)、六日町の富商・日高徳左衛門が京阪地方から来た旅芸人の三味線に魅せられて、町の三味線名人・坂本直一に習わせた。それに振り付けを工夫して、上方風の優雅な踊りに仕上げたと伝えられている。
 このため、地元だけで踊られていたが、模倣されて近郷に広まったといわれる。綾町の神下、上畑、高岡町の上倉、国富町の嵐田、宮崎市の跡江、小松、日平などにも俵踊がある。
 しかし、六日町俵踊りは歌詞、音曲、振り付けなどに独特のものがあり、趣を異にしている。
甲 斐 亮 典
メモ
 明治・大正のころには、秋の豊年祭りとして鎮守八幡社や剣柄稲荷社で踊られた。以前は11月16日の八幡社例祭に、五穀豊穣(ほうじょう)を祝って奉納されていたが、現在は特別な催しのときだけに限られる。保存会の20数人が伝承。創始者の日高徳左衛門は1864(元治1)年に84歳で死去。泉屋3代目の弟だったという。





六日町俵踊の写真
俵を積みながら
豊作に感謝する俵踊り


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