みやざきのうたと芸能101ロゴ 木花相撲踊

 
●女性が力士姿に扮装
 女性たちが、力士姿に扮装(ふんそう)して踊るユーモラスな芸能である。
 シュロの皮で作ったまげをがぶり、豆絞りの手ぬぐいで鉢巻きを締め、黒襟の青じゅばんをのぞかせる。
 腰には紅白のしめ縄。踊り手のしこ名を染め抜いた色鮮やかな化粧まわしを着ける。
 20人ほどの踊り手が、から傘に駒下駄(こまげた)のいでたちで威勢の良い歌声に合わせ、相撲四十八手を織り込んで踊る。
 伴奏は三味と太鼓。歌詞も調子が良く分かりやすい。
 琉球おじゃるなら わらじ履いておじゃれ 琉球は石原小石原
  サーサヨイヤサノステキノガンガン
 会うてうれしや別れのつらさ 会うて別れがなけりゃよい
  サーサヨイヤサノステキノガンガン
 エーそろたそろいました 関取さんがそろた 秋の出穂よりこいつはまたそろた
  アードスコイドスコイ
 踊りの起源は、明治の初めころ、大相撲の一行が宮崎地方に巡業に訪れたとき、その中の次吉、庄吉らが居残って木花地方に住みつき、この踊りを教えたと伝えられている。伝承の経緯が明確な芸能である。
 次吉は木崎の長友家に、庄吉は今江の崎山家に入り婿となった。
 どちらも1921(大正10)年に没していて、集落の墓地にその墓がある。
 次吉の孫娘にあたるフサは、相撲踊りの歌い手として知られていた。
 地元木崎生まれの坂元長市は、三味線に優れた才能を持ち、継承に努力したので、昭和初期のころには、相撲踊りの全盛期を迎えた。
 1927(昭和2)年の木崎大橋の竣(しゅん)工式には、木崎地区の婦人会が総出でこの踊りを踊った。
 この日、同地区では小学校の子供11人もこの踊りに参加した。
 後でその子供たちは、学校に無断で踊りに出たという理由で、先生にしかられたというエピソードも伝えられている。
 そのときの子供の一人である佐藤ミツ子は、踊りの伝承者で、86歳で現存する。
 1979(昭和54)年、民放テレビの人気番組で、県内の郷土芸能の中から選ばれて全国に放送され、広く知られることになった。保存会の中には、子供30人もいて、踊りを継承している。
甲 斐 亮 典
メモ
 かつて、地区の熊野神社の祭礼には、相撲踊りは祭りを盛り上げる出し物であった。現在では、踊りの保存会が継承に努力している。この踊りは、周辺の町村にも伝わったが、現在は清武町だけに残っている。地区の運動会やイベントなどに披露される。時期は不定。問い合わせは宮崎市教委へ。





木花相撲踊の写真
化粧まわしを着け、傘を手に
ゆったり踊る木花相撲踊
(みやざき民俗芸能まつり)


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