みやざきのうたと芸能101ロゴ 尾八重とめ女

 
●「悲運の美女」つづる
 西都市銀鏡地区に歌い継がれている「尾八重とめ女」は、物語性を持つ数少ない民謡である。
 尾八重とめ女は良いこた良いが 少し目もとが悪るござる
 とめ女かたびら裁ちよがござる 袖が三尺 身ごろが五尺 着せて振らせて あとから
  見れば 天下御門も振りかくす
 主人公のとめ女は、谷を隔てた尾八重地区の生まれで、小柄だが色白の絶世の美女だったと言われている。尾八重地区は一ツ瀬川沿いの瓢丹淵から、支流をさかのぼった山中だから、それこそ鄙(ひな)にはまれな存在であったろう。村の若者たちにとって、恐らくあこがれの的だったに達いない。とめ女は1765(明和2)年ころ、狩りにやって来た、領主の米良主膳則敦(14代)に見初められ、小川の屋敷に奉公することになる。
 地元の記録には、主膳は身の丈六尺五寸、体重三十貫余り、眼光あくまで鋭く、江戸城の大広間に着座した時、諸候もその風ぼうに驚いたと記されている。彼女はこの主人によく仕え、たいへんかわいがられたという。とめ女は時折、尾八重に里帰りした。3つの山を越す山路(みち)は、女性の足にはいささか厳しい。そこで中ほどの銀鏡で一休みした。
 とめ女死んでも野辺まじゃやらぬ 焼いて 粉にして印籠につめて 銀鏡若い衆の気の薬
 集まった村の若者たちは、あこがれとやっかみの入り交じった視線を送り、高ねの花を勝手に摘み取った領主に対して反発し、黙って従っている彼女の態度をなじった。ところで則敦の寵愛(ちょうあい)を一身に集めたとめ女であったが、やがて仲間内の争いに巻き込まれ、小川の屋敷を去ることになった。
 なる女おしゃるな 明日から立つが 後の名代はこみ女に頼む
 私はお暇を頂きましたので、明日故郷へ立ちますが、後の始未はこみ女さんに、頼んでおきましたの意であろう。こみ女の存在が気になる。
 唄(うた)の由来については、銀鏡に働きに来ていた岩切という青年が、もともと歌われていた「せんば女」という民謡に、とめ女の物語を書き加えたものとされている。悲運の美女の物語でつづる「尾八重とめ女」は、都ぶりのゆっくりした旋律の中に、一はけのかげりを宿す、深山の佳曲である。
原田 解
メモ
 民謡の宝庫に例えられる銀鏡地区には、「木おろし唄」や「中唄」などの一連の仕事唄と、これとは対照的な「塩や塩」「桃と桜」「尾八重とめ女」といった粋(いき)な都節が、まとまって歌い残されている。貴重な民謡伝承圈である。これには米良街道を通しての熊本・人吉文化の移入が、大きくかかわっている。尾八重地区に彼女の墓が現存するが、これは後から作られた、記念碑的なものである。





とめ女のふるさと尾八重の風景写真
とめ女のふるさと尾八重


目次へ 56 ごぜむけ唄のページへ
58 宮之浦網引き唄のページへ