みやざきのうたと芸能101ロゴ 鉱山の唄

 
●大声を発し睡魔払う
 県内では珍しい鉱山に関する民謡が、五ヶ瀬川流域に、まとまって歌い残されている。
 高千穂町土呂久、日之影町見立、北方町槙峰などの鉱山は、江戸時代からの歴史を刻み、昭和40年代の閉山まで生産を続けてきた。
 ハー 叩いても叩いてもこの穴くえぬ 石が硬いか手の技か
 ハー 歌でやらかせ これくらいの仕事仕事苦にすりゃ 日がながい
 「槙峰石刀節」は、つるはしやたがねの先を打ち合わせた軽快なテンポで歌う仕事唄(うた)である。技術者や坑夫たちが全国に運んだ「石刀節」の流れで、旋律は茨城民謡の「常磐炭坑節」と同型。
 金、銀、銅などを産出した槙峰鉱山は、1889(明治22)年、三菱が本格的な経営に当たり、戦時中の最盛期には2,000人近い関係者がここで暮らしていた。
 削岩機が入る昭和の初めまでは手掘りが主で、3交代の坑内作業には常に危険が伴っていた。そこでお互いが自分の居場所を周囲に知らせ、襲って来る睡魔を払うため、大声でこの唄を歌ったという。またわき水をくみ出す際にも「水引き唄」が歌われた。
 ハァー 引けどしゃくれどこの水減らぬどこのどなたがためた水
 こちらはやるせない思いを込めた嘆き節である。脚光を浴びた鉱山も社会環境の変化に伴い、1967(昭和42)年に閉山。歌声も絶えてしまった。
 床屋千軒 みな吹き立てりゃ 空を舞う鳥みな落つる
 ふいごさすさす 居眠りなさる 金の湧くのを 夢に見る
 見立鉱山の「金(錫)吹き唄」も、調子のよい仕事唄である。大分県境に近い山中に、26(大正15)年、英国人ハンス・ハンターによって東洋鉱山が設立され、本格的な開発が進められた。昭和に変わり隆盛期を迎えると人口も増え、従業員の住宅が山腹に並び活況を呈した。
 この唄もまた現場で歌われたものだが、69(昭和44)年に閉山となり、歌い手も山を去ってしまった。今は英国館や飯場跡に、当時の様子を思い描くだけである。
 このほか高千穂町の土呂久鉱山でも「かね吹き唄」が歌われている。これら鉱山の唄は、かつての繁栄をしのばせる残照の調べと言うことができよう。
原田 解
メモ
 大正末から昭和の初めにかけての槙峰鉱山での坑夫の賃金は、初任給が30銭、1等坑夫で70銭から80銭が相場だった。時価米の価格が1升15銭、酒1升35銭。また坑内での作業はランプの下で行われ、水引き係の女性たちと、これらの唄を上下掛け合いで歌っていたという。





槙峰の写真
繁栄のおもかげをとどめる
槙峰


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