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概説
 
祭りと芸能

 

 

 祭りと芸能とは、きり離しては考えられない。いずれも民間の信仰に支えられた営みだからである。夜神楽の奉納が「冬まつり」と称されるように、芸能そのものが集落の祭りそのものであったり、あるいは祝祭部分の一部を占めたり、神賑行事として「練り」を組んだりする現状からも十分に察せられる。しかも祭りは生産の儀礼や人生の儀礼と深く結びついており、「暮らし」の安寧を願う意思と行動の表象であった。
 それゆえに、集落においては置き去りにできない年中の行事として、今日まで継承されてきたのである。人々は季節の推移とともに動く。いま稲作を例にとると、春には田の神をまつり芸能を奉納して豊作を祈願、夏には田植えを行い虫送りをして、秋には鎮守の神々を招き豊穣の感謝祭を催す。人の一生の通過儀礼においても、厄年に当たる人々が神輿(みこし)を担いだり、集落に黒不浄があると、盆には念仏踊りや供養踊りで慰める。したがって、芸能は祭りとともに伝承されてきたのであり、集落の「和合」の要として、節目に位置づけられている。
 芸能はこういった意味あいにおいて、集落の生命力の年ごと、または季節ごとの更新をはかるために繰り返し行われてきた儀礼という点で一貫しており、それなりに洗練もされてきた。ただ、社会構造が分化し、あるいは多様化してくると集落全体の祈願性が希薄となり、一部の人々が担う芸能へと転化してしまう。高度経済成長期の人口流出や高齢化と軌を一にした集落の過疎化、これらの動態によって廃絶した芸能もないではない。それでも宮崎県域には多くの芸能が伝えられており、その場に出くわすと「ふるさとへの邂逅(かいこう)」に胸の高鳴りを覚えるのである。

神 楽
 宮崎県は全国的にみても有数の「神楽伝承圏」といえるであろう。文献の上からみても「神楽史」は、おおよそ800年前に遡(さかのぼ)る。そのころの神楽がどのようなものであったのかは明らかでないが、はじめは熊野信仰の浸透により成立したもののようである。戦前まではほとんど全市町村に分布していたが、現在は33市町村で執り行われている。
 県域の神楽の季節は二季、すなわち春と冬である。春は平地並びに海浜地、冬は山地が主である。平地のそれは普通には「作神楽」と称し、海浜沿岸部のそれは「漁神楽」を含む。山地の神楽は「冬まつり」の位置づけで「夜まつり」などという。熊本県に接する北西部の「夜神楽圏」、この地域を”焼き畑・狩猟儀礼”を織り込んだ番付に特色をみるとすれば、南西部霧島山麓に伝承する「神舞」は、伝来の”修験色”を強くとどめて勇壮である。平地神楽は稲作・畑作の”予祝の儀礼”を織り込んだ番付の編成が特徴的であり、東部沿岸部のそれは”豊漁祈願”の恵比須神楽で特徴づけられる。すべての神楽に共通しているのは、「岩戸びらき」の伝承を取りいれた”岩戸目標”の神楽である。
 普通に神楽といえば、本県域では「夜神楽」をさす場合が多い。通常33番の編成を基本としているが、隔年奉納の大神楽の年には必ずしも番数には拘泥しない。夜神楽は奉納の集落により時刻は異なるが、午後に招神の舞い込みを行い、夕刻から1番舞に入り、徹夜で舞い通し、翌日午前中に舞い上げ、神送りして直会で結ぶというのが普通である。所により違うので神楽座に参入する場合は、前もって確かめておくのが良策である。ことに近時は従来の奉納日によらず、土曜日から日曜日にかけての設定が多いので注意を要する。ちなみに、夜神楽は新暦11月から翌年2月にかけて集中的に奉納されるので、このこともつけ加えておこう。
 夜神楽が民家や公民館を神楽宿とし、あるいは境内に注連(しめ)立てして奉納するのに対し、作神楽はそのほとんどが鎮守境内に祭場を仕つらえて執り行い、昼間の奉納である。漁神楽も同じであるが、普通には2月から5月にかけての祭日または休日に催される。中には「半夜神楽」と称し、夕刻から舞いはじめ夜半までに舞い納める所もある。作神楽の始源はどうも「霧島神舞」にあるらしい。祓川(はらいかわ)神舞と狭野(さの)神舞の2つが徹宵神楽として県域には残るが、日南市や宮崎市の神楽は神楽歌や唱教、あるいは番付名の類似などから推して共通項が多く、霧島信仰を色濃く反映している。
 県域の神楽は系統的に類別すると、高千穂系・椎葉系・米良系・霧島系・延岡門川系・高鍋系・宮崎日南系等に分けられようが、それぞれの特質をもちながら、今日まで舞い続けられている。例えば、高千穂系における神道化による命(みこと)づけ、椎葉神楽における神仏混交による古風、米良系における在地神体の出現などがそれである。 

盆踊り
 盆踊りは旧高鍋藩領に顕著に分布し、例えば高鍋町と串間市だけで、その数100ヵ所に及ぶ。古来、正月と盂蘭盆会(うらぼんえ)には先祖の霊を迎えて「魂まつり」をした。ところが、正月は万物が蘇生する「春迎え」中心の行事を行うようになり、先祖の霊を供養するのは春・秋の彼岸会と盆会が専らとなった。
 盆には祖霊、特に新精霊を迎えて種々の儀礼を営むが、盆踊りもその一つ。県域の場合も7月盆、月遅れ盆など期日は不統一だが、8月盆が最も多いようである。盆踊りは集落共同の慰霊行為が習俗化したもので、ことに新盆を迎える家には親類・縁者が集まり供養する。そこに集落の青年男女が巡回してきて、庭先狭しと踊りの輪を広げる。同じ念仏踊り系でも、北西部山地集落には墓地で踊るという古い形が残されている。この踊りを”新盆供養型”といえばよいであろう。
 しかし、最も多いのは集落の広場や寺の境内に櫓(やぐら)を設けて、老若男女がこぞって踊る”大衆娯楽型”である。丸太や角材で台状に組みあげ、水引幕を張り提灯を吊り渡し、踊り場の明りとする。台上には音頭取り数名と、三味・太鼓方が陣どる。夕刻になると各戸から三三五五、櫓の広場に集まり、楽に合わせて音頭取りが自慢ののどを披露する。
 以前は”口説(くどき)”が主流で「鈴木主水」「牡丹長者」「いろは口説」など7・7調が人気を得たが、近来は「ばんば踊」「新ばんば踊」をはじめ、新民謡やいわゆる「当地ソング」が踊り唄の主流になりつつある。時代の趨勢とはいえ、盆踊りも現代の新しいリズムを受けいれつつある。

風 流
 風流(ふりゅう)とは、趣向を凝らした風情のある作り物や仮装などを含めた”集団舞踊”をいうが、民間に伝える芸能は、その大半が「風流芸」である。実は「盆踊り」もそうなのであるが、県域でも大道を進む芸や広場に展開する芸は、この枠に入る。例えば、大がかりな「荒踊」「あげ馬」「太鼓台」をはじめ「熊襲踊」「馬踊」「泰平踊」など、すべてそうである。
 風流のうち王座を占めるのは、「太鼓踊」と「棒踊」である。前者は県域80余ヵ所に伝え、後者も60余ヵ所に及ぶ。両者を合わせ伝えていないのは、1市3町のみにとどまる。太鼓踊りは、太鼓を胸や腹にかかえ、打ち鳴らしながら踊る。県域の場合はそのほとんどが花笠や陣笠をかぶり、背に幟または旗と称する神籬(ひもろぎ)を負うて踊る。太鼓も大太鼓・臼太鼓・バラ太鼓と色々で、楽として鉦(かね)を用いるのも特徴的である。芸態はそれぞれに特色を持つが、その隊形は縦列と円陣、または渦巻きを基本とし、さまざまに変化する。太鼓踊りは、太鼓の呪術性により疫病退散・悪霊鎮送から虫送り・火伏せ、あるいは雨乞いと実に多機能を負わされている。
 一方、棒踊りは三尺棒や六尺棒を打ち合わせながら踊る”組み踊り”で、旧薩摩藩領に多く分布する。特に都城市や北諸県郡域のそれは「奴踊」を伴うのが特徴的である。これに対し、西臼杵郡域では「棒術」と称し、杖道に近い動きをみせる。地域により扮装は違うが、鉢巻きにたすきがけ、手甲・脚半の姿が多く、掛け声もりりしく左右・前後と打ち合いながら、切り結ぶ隊形をとる。
 ちなみに、「奴踊」は通常子供や青年男女が手甲・脚半、たすきがけで、隊列を組み踊る。「棒踊」の”あと山”などと称し、願成就の踊りでもある。飫肥城下に伝える泰平踊の伴踊り「奴」は、奴姿の小粋な伊達(だて)振りを誇示し、一層華やかさをひきだす役柄である。
 延岡市を中心として北西部に人気のあるのが「団七踊」、多く盆踊りとして踊られる。藩政時代、延岡の外港であった東海(とうみ)・大武あたりから流入し定着したものであろうか。口説もので反権力の筋書きが、大いに人々に迎えられたのであろう。姉妹が相携え”仇討ち”を果たすまでを段落に分け、採り物主体の組踊り。”旧ばんば”の名のもとに踊られることも多い。他に、組踊りでは「元禄坊主踊」「兵児踊」「虚無僧踊」などがある。

地芝居
 地芝居では「文弥節人形浄瑠璃」と「大人(おおひと)歌舞伎」とが双璧をなす。文弥人形は”人形の館”を、大人歌舞伎は”歌舞伎の館”をもち、ともに公開・伝承活動に余念がない。昭和の時代まで伝承されてきた「宮水人形」、辛うじて命脈を保つ「柚木野(ゆのきの)人形」、そしてまた一世を風靡した「佐土原(さどわら)歌舞伎」はすでに消滅しており、民間の芝居として一手に人気を集めた”座の芸”は、名優の名を残すのみである。
 文弥人形については、「府下(ふもと)の人形まわし」とも称し、小山直太なる人物が参勤交代に随従した折り習得して、麓集落に伝えたともいう。また、「出世景清」の写本に曽木某が文弥節を好んだという書きつけがあるが、あるいは念仏聖や遊芸僧のもたらした”浪華文化”ではなかったか。
 歌舞伎は元禄文化の主流で、舞台芸能として役者が専業化し隆盛を誇った。人気あるゆえにこれら俳優の芸を真似て演ずる者たちが、地域へ分け入り普及した。庶民の三都(さんと)文化への憧れとも相俟って、やがて”観る”歌舞伎を自ら”演ずる”芝居として定着させた。「大人歌舞伎」もこの一つで、集落芸能として人気を集め、上演外題も増えて「新劇」までも演ずるようになった。この歌舞伎が今日まで伝承されている事由の一つに、時代の風雲児甲斐宗摂(そうせつ)の供養芝居であるということが挙げられよう。

季節と芸能
 田楽系の芸能も注目の一つである。ことに県域南西部から南部にかけての”田遊び”で、稲作の豊穣を祈願する。本冊には収録できなかったが、例えば苗代田祭の「ベブがハホ」(高原町)、打植え祭の「天宮どんの御下(おくだ)り」(えびの市)、春日祭の「ベブどん」(都城市)、山之口町・三股町・都城市の「太郎踊」や「寝太郎の神まつり」(串間市)など、笑いを誘う早春の”牛使い”の芸能として味わい深い。
 獅子舞も鎮守の祭礼に多く奉納される。猿田彦の随役として神幸の先導をつとめたり、あるいは祭礼の期間中家並みのある場所や辻で芸を披露したりする。中でも潮嶽(うしおだけ)(北郷町)の「藤舞」と称する獅子舞は、同所の「御神子舞」とともに特異な芸能として心に残る。
 特色ある芸能といえば、神楽に派生する「田植踊」(日之影町)・「箕(み)踊」(諸塚村)をはじめ、ユーモアあふれる踊り振りで全県域に普及している「ひょっとこ踊」(日向市)などがある。盆踊り系では「楽(がく)踊」(高千穂町)や「念仏踊」(諸塚村)、さらに笠流しの儀礼を伴う「花笠踊」(延岡市)など古風を伝えてゆかしい。「傘踊」(国富町)・「じろま踊」(高鍋町)・「ふむし踊」(日向市)・「いだごろ踊」(南郷村)などもまた盆に踊られる。
(山 口 保 明)

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