宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
ヤマトとハヤトが共存した西都原

ヤマトとハヤトが共存した西都原

二つの文化の接点として

今より気候が冷涼だった縄文時代、日本列島でもっとも温暖な地方だった南九州には、早くから人が住み着き、やがて彼らは他に類例のない独自の文化を形成していった。そうした南九州の文化を示すものとして、西都原には現在分かっているだけでも30基ほどの地下式横穴墓がある。土をうず高く盛り上げて、その土盛りの中に被葬者を埋葬する大和式の古墳は、人を天なる神々の国に近づけるものであるのに対して、地面の下に広々とした玄室を掘る地下式横穴墓は、死後の世界は地下に存在するという思想を象徴している。宮崎中央平野は、この地下式横穴墓の北限にあたる地域だ。

西都原考古博物館に展示されている隼人の楯(復元)

西都原考古博物館に展示されている隼人の楯(復元)。南九州には独自の文化と生活をもつ人々がいた。

死生観という、人間の基本的な認識の違いは、文化の源流がまったく異なることを表すもので、大和の政権にとって南九州は、「取り込むべき、異文化のクニ」だった。しかし、それは記紀にある天皇と南九州の女性との婚姻にも示されるように、征服というよりも、むしろ懐柔や友好といった穏やかな道筋で進められていったようだ。西都原に古墳が盛んに築造された同じ時代に、地下式横穴墓も作られており、また、地下式横穴墓の上に古墳を作る、両者の折衷案のようなものもあって、この最大規模のものの一つが西都原にある。西都原は、二つの文化の融合を図る大和の前線基地のような役割を果たしていたのだろう。8世紀に反乱を起こして鎮圧されたハヤトと先祖を同じくする人々が、ヤマト文化と共存しながら暮らしていたイメージが、西都原には浮かんでくる。

地下式横穴墓が発掘時そのままに保存展示

坂元ノ上横穴墓群には、6基の地下式横穴墓が発掘時そのままに保存展示されている。

 

海洋民族のシンボルとしての舟形はにわ

黒潮ルートによる南方との交易

西都原の代表的な遺品のひとつに、男狭穂塚・女狭穂塚の※1陪塚である170号墳から出土した舟形はにわがある。丸木舟の両舷に波よけと思われる板を立てた準構造船で、船首と船尾が大きく反り上がっている形から、外洋を航海する舟であったことが推測されている。西都原の人々が、主に南方との交流のある海の民でもあったらしいことは、権力を示す貴重な装飾品であった貝輪の出土からも示唆される。

舟形はにわ

170号墳から出土した(※2)舟形はにわは、外洋を航行する準構造船だったと考えられている。西都原の人々は、海の民でもあったのだろうか。

素材となるゴホウラ、イモガイ、スイジガイといった貝は、奄美大島以南から赤道付近に分布するもので、この交易が本土最南端に位置する日向=南九州を拠点に行われたと考えるのは自然だろう。逆に九州の土器が沖縄でも発見されている。また、南方文化は、神話にも反映されている。天孫降臨や山岳信仰のように、神は天上界におわし、天により近い山の頂きに宿るという思想は、東北アジアを源流にするといわれる。

古代、貴重な装飾品だった貝輪は、南の島々の貝で作られた。

一方、南方の島々では、ニライカナイ伝説のように、神は海の向こうからやってくる。日向神話にある海幸彦・山幸彦の物語は、後者の色彩が強い。西都原は、その意味でも二つの文化の接点だったのだろう。前述の日高正晴氏は、海幸彦・山幸彦と同様の伝承が、セレベス、パラオなど東南アジアから太平洋の島々に広く伝わっていること、西都原独自の出土品である子持ち家形はにわの母屋部分が、ニューギニアの祖先をまつる祠(ほこら)に類似していることを指摘している。こうした外洋を航海する技術をもつ人々を味方につけることは、海から遠い大和政権にとっても重要で、7世紀初頭、推古天皇の時代に百済救援の出兵を行った際にも日向へ援軍の派遣が要請されたとされている。

日本で唯一、西都原でしか発見されていない(※2)子持ち家形はにわ。五軒の家が組み合わさってできているその形は、何を意味するのか。西都原の謎のひとつだ。

※1 主となる古墳のそばに親族や近親者を葬った古墳。「ばいちょう」ともいう。
※2 写真の舟形はにわと子持ち家形はにわは、復元品を撮影。実物はいずれも国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に収蔵されている。