第1章 各地域の地形・地質と風土
3.延岡・日向地域
延岡・日向の2市に門川・北浦の2町を加えた臨海地域である。四万十累層群や尾鈴山酸性岩類が日向灘に迫り、岩石海岸と砂浜海岸が交互する景観地帯であるとともに、延岡・日向を中心とする工業地帯ともなっている。細島半島は陸島である。縄文海進時代の尾末湾に浮かぶ島々が背後の山地から供給された土砂によって埋め立てられたものであろう。乙島や竹島は埋め立てて残された島であるが、このうち竹島は人工的な陸島となった。富高と細島の間の沖積平野には砂層から成る微高地が広がり、その中には今なお無数の貝殻が色彩も鮮やかに散りばめられている。このような砂層と微高地は門川付近や小倉が浜の後背地にも列をなして発達している。特に、小倉が浜の砂層微高地は海岸線と平行して数条の列を作り、砂浜に面して形成される浜堤が順次海岸に向かって新たに付け加えられて行った過程がうかがわれる。一方、北川・祝子川・五ヶ瀬川の合流する延岡デルタ地帯も、かつては深く湾入した延岡湾の真只中であったものが、それら河川の沖積作用によって、ここ数千年の間に陸地と化したものであろう。
これらの沖積平野を構成する沖積層1)の基底は、沖積平野の広さに割合には意外に深く、海水準面下60mに至っても、なお四万十累層群や尾鈴山酸性岩類の基盤岩に届いていないところが少なくない。これは沖積層が堆積する前の河川や波によって深くえぐられた跡を示すものである。沖積層が堆積する以前には、氷河期に関連して海面が低い時代があり、今から妬く万年前頃の海面は現在より約140mも低かったことがあると言われている。若しそれがこの地域に適用できるとすれば、この地域の沖積平野の地下には深さ100m前後の谷が埋もれていても不思議はない。延岡背後の山麓・丘陵・台地には、先土器期から縄文期を代表する下舞野遺跡や大貫貝塚が知られ、これらの遺跡が現在の海岸線から遠く隔たった内陸にのみ知られているのは、当時の海が深く湾入していたことを裏づけるものであろう。その後、沖積作用が進み、海岸線が海に向かって前進するにつれて、縄文後期から弥生・古墳期に至る遺跡が次第に広がり、貝の畑遺跡・南方古墳群・沖田貝塚へと前進する。
富高を流れる塩見川沿岸には、河川規模に似合わず段丘が発達している。そのうち下流部にあるものは海岸段丘と思われるが、その一部からは暖帯〜亜熱帯性の貝塚や珊瑚礁の遺物と思われるものまで産出し氷河期と呼ばれる更新世においても、この地域は決して寒くはなく、黒潮洗う磯浜は連綿と今日まで続いてきたのかも知れない。また段丘の一部には耳川沿岸の段丘の延長と思われるものがあり、当時の耳川は尾鈴山酸性岩帯に遮られ、坪谷川を合わした後、旧尾未湾に注いでいたかも知れない。現在の塩見川の規模にしては、その中流域の谷幅が余りにも大き過ぎる。また五十鈴川に較べて下流域の沖積作用が遥かに進捗している。その背景には、予め大量の土砂が耳川から運ばれていた秘密があるかも知れない。
ともあれ、地質時代・先史時代を通じて幾多の変遷を経た海陸の分布も、弥生期以降はほぼ現在の状態に近づき、砂浜海岸沿いには砂丘や浜堤が自然の防潮堤をなし、後背湿地に米作地帯を生み、埋め立て残された岩石海岸の湾入は天然の良湾となり、西臼杵・東臼杵の奥地と海上を結ぶ交通の要衝としての地位を築くこととなった。島と岩礁と湾入に富んだ尾鈴山酸性岩海岸は古来、宮崎平野以北における最適の港湾地帯であった。この地に神武天皇御船出の物語が伝えられるのも、今日何万トンというタンカーやフェリーが往来するのも、あながち偶然ではない。
1) | 時代的には更新世に属する部分もあると予想されるが、ここでは約2万年前と言われる最大海退期以降の沖積作用によって形成された堆積物を総称して沖積層と呼ぶ。 |