第1章 各地域の地形・地質と風土

5.宮 崎 地 域

  宮崎市を中心とする地域で、清武・田野・高岡・綾・国富・佐土原を加えた1市6町がこれに含まれる。大部分が宮崎平野南半部に位置するが、国富町と綾町の西部は九州山地に入り、高岡町の南部に高岡山地、田野町南部から宮崎市の南部にかけては南那珂山地ないし鵜戸山塊の一部を擁する。宮崎平野の地形は西都・児湯地域のものと本質的な差はなく、段丘堆積物も同様なものが広範囲に分布するが、開析が進み平坦面が減少しつつ丘陵化しているのが特徴である。また、大淀川や清武川の沿岸には、始良カルデラ(錦江湾)に端を発し、鹿児島県境を越えて西諸・北諸県地方を席巻きし、更に大淀川沿いに下ってきたもので、上北方−南宮崎−木花の線まで沖積面上に露われている。縄文遺跡の東端もこの線とほぼ一致する。これに対して弥生遺跡は広瀬から阿波岐ヶ原を経て赤江・木花に至る砂丘地帯まで前進し、ここでも縄文海進期から弥生・古墳期の海退期に至る古代文明拡大の軌跡が、現世の地形・地質的な展開と呼応して偲ばれるのである。かさかの崎として神武天皇宮居の跡と伝えられる北方丘陵は、礫層を載せた段丘の遺物であり、縄文海進期を中心とした頃の岬であったことは確かである。その地形的な支脈は瓜生野・本庄・跡江・生目の丘陵・台地群となる。それらの丘陵・台地の末端は、尾根伝いに移動した古代人の執着拠点となり、更にその後の沖積平野の拡大につれて、砂丘地帯が新たな開拓地として登場することになる。

  宮崎市は封建時代の城下町を経ずして成立したユニークな都市である。古くて新しき町と呼ばれるゆえんである。神話と伝説が沖積層発達史に順応した古き宮崎を伝えるならば、新しき宮崎は大淀川の沖積作用に抗して栄えた、河口港町にその崩芽を見ることができる。しかし、それは悲劇の幕開けであった。約320年前の寛文2年9月19日夜半。その時の日向灘地震は沿岸一体を激しく揺さぶり、大淀川河口左岸の港町、下別府村は海底に没したと伝えられる。当時の被害は延岡から飫肥まで及び、城址に残る歴史石垣の大崩壊が記されている。大淀川の沖積作用地帯に急速に土砂を供給し、約40年後に原状に復したと言われる。新しき町宮崎の中心街が海岸線から経ること4kmの自然堤防上に固執してきたわけの一明期を迎えたと言ってよい。100年にして成った都市。それがエキゾチックなまでに明るい今日の宮崎の姿である。

  宮崎平野の南には標高1,119mの鰐塚山を主峯とする南那珂山地が横たわる。大部分は四万十累群の砂岩と頁岩によって構成されるが、油津までの海岸寄りの部分には宮崎層群が重なり、独立した山塊を形作っている。鵜戸山塊と呼ばれるものである。砂岩と泥岩の差別侵食によって、ごつごつしたケスタ地形が宮崎から望まれる。そこから見える範囲は500m前後の山に過ぎないが、峯と谷は意外に険しく、宮崎層群の基底礫岩は双石山や加江田渓谷の断崖を作り、砂岩泥岩互層も渓谷沿いに垂直な懸崖をなしている。


宮崎層群基底礫岩の作る双石山の険崖

  その砂岩泥岩互層が波の侵食を受けてできた波食台が海面上に姿を現したのが、いわゆる波状岩である。それは亜熱帯植物群落とともに、日南海岸を代表とする景観を形成している。青島は波食台の島である。