みやざきの百一人ロゴ 高木兼寛(たかきかねひろ)1849(嘉永2)年〜1920(大正9)年


●国民病の脚気を治す
 1999年は、“ビタミンの父”高木兼寛の生誕150年に当たる。出生地の高岡町では、これを機会に「兼寛顕彰会」を組織し、県も“郷土の先覚者”を広く県民に知らせるための顕彰活動に取り組んでいる。21世紀への懸け橋となるよう…。
 幼名は藤四郎、薩摩藩士の子として穆佐郷(むかさごう)白土坂に生まれた。7歳で中村敬助の塾に入り、やがて村人から敬愛されていた医師黒木了輔(りょうすけ)にあこがれ、医者としての道を歩くことを決意。17歳の時に志望を果たし、鹿児島の医学校に進み、石神良策と英医ウィリスに師事。これが生涯英国の医学を学び、海軍に身をおく運命的な出会いとなった。
 上京した兼寛は、海軍軍医学校の英医アンダーソンに学び、彼の推挙によりセント・トーマス医学校へ留学。5年間修学の成績は抜群、明治13年に帰国した。当時脚気(かっけ)は国民病とも言われ、海軍の約3割の兵員がこの症状。帰国手始めの研究は“脚気撲滅”であった。
 その原因が栄養のアンバランスにあると確信した兼寛は、兵食の改善を提起した。しかし、森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、容易でなかった。兼寛は参議伊藤博文の助言を得て、明治天皇に謁見(えっけん)、英断を仰いだ。やがてこれが効を奏し、栄養実験船「筑波」が出港、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。
 “病気を診ずして病人を診よ”の信念に従い、今日の東京慈恵会医科大学を創設。さらに各界の協力を得て、わが国最初の看護学校を設立した。その足跡は世界的である。(山口 保明)
メモ
◎「ビョウシャ1ニンモナシ」
 1883(明治16)年、軍艦「龍驤(りゅうじょう)」は376人を乗せ、ニュージランド、南米、ハワイを経て航海。うち169人の重症脚気患者を出し、25人が死亡、航行もままならない状況に陥った。
 その翌年、軍艦「筑波」が兼寛の“改善食”を積み、品川沖から出港。龍驤と同じ航路をたどる実験を試みた。400人に近い乗組員。結果を待つ兼寛は、不安と期待が交錯して眠れない日々。…ついに来た!「病者1人もなし安心あれ」の電文。脚気患者は1人も出ず、兼寛の栄養説が証明された。それは同時に、旧日本陸軍食の欠陥を立証する結果にもなった。
 後日譚(たん)であるが、某軍医が兼寛に「筑波で脚気患者が出たらどうした?」と。兼寛は「切腹してお詫びするつもりだった」と。まさしく命を救うための、命をかけた決断だった。


高木兼寛の写真
高木 兼寛
(ロンドン留学時代)







穆園広場(高岡町小山田)の写真
高木兼寛生誕の地風景。生家跡は穆園広場として整備され、訪れる人々も多い(高岡町小山田)

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