みやざきの百一人ロゴ 関月尼(かんげつに)1823(文政6)年〜1885明治18)年1823(文政6)年〜1885明治18)年


●恋に生き諸芸伝える
 ふみだにもあやうかせばをもひのみ
  深谷川のくち丸木ばし

 関月尼の歌である。手紙をもってしても確信がもてないので、私はもの思いにふけるのみ、それはちょうど朽ちた丸木橋のようなものと詠んだのであろう。恋多き尼僧の心の内を吐き出した1首。
 尼僧の本名は小山せき。延岡市千光寺の過去帳には小山関子とある。出生は大坂、天保の飢饉(ききん)の際ほう起した大塩平八郎の娘と伝えられる。
 母は遠島、生活も苦しく、せきは若くして出家したというが、真相は謎(なぞ)につつまれている。たまたま京都の寺で修行中の僧・恵等(えとう)と相知り、2人は情熱断ち難い関係に陥った。
 こうなると“恋の道ゆき”、2人は長崎を経て延岡へ。恵等40歳に近く、関月20歳をすぎた年齢であった。はじめ別々に暮らしたが、島野浦神聚寺(じんじゅじ)に入り同せい、土地の人々に愛された。尼僧は“おせきさん”と呼ばれ、生花・茶道・三味線・琴などを教えた。
 ところが、恵等が島の娘“お房”と仲良くなり、関月尼は島を離れ延岡の東海(とうみ)の常楽院に入った。運命の皮肉であろうか、ここで船問屋の伝五郎と再婚。この暮らしも5、6年しか続かず、やがて延岡誓敬寺の食客となった。柴田家の3畳間を借り、和歌、鼓など諸芸を教えた。この間、2度ほど上京、歌道の師太田垣蓬月(おおたがきれんげつ)に会いに行ったという。
 やがて延岡の祝子(ほうり)の千光幸恵照の妻となり、ここで63歳の波乱にみちた生涯を閉じた。(山口 保明)
メモ
◎西南の役と関月尼
 1877(明治10)年、西南の役が起こり、多くの青年が戦いに散った。10代から20歳代の未亡人ができ、のっぴきならぬ社会問題となった。鹿児島県は未亡人の再教育のために、関月尼に自羽の矢をたてた。
 これに応えた関月尼は、翌年の春、束髪を落とし黒染めの衣に身を包み、馬上の人となった。当時19歳の甲斐もん、17歳の柴田きく、白石ときの3人は延岡の伊形(いがた)の松並木に師を待ちうけ、しばしの別れを惜しんだという。
 鹿児島で技芸教育を施すこと2年、千光寺に戻った関月尼は疲れが出たのか、臥しがちであった。それでも経典などを書写し、曹洞宗台雲寺(だいうんじ)末40カ寺に献納、気分のよい日は教え子たちと談笑した。
 関月尼の歩みが残した民衆への啓蒙(けいもう)活動は、語り草となって伝わっている。
 きのふありて今日はなき身と
  消えゆくも 残るも同じ道芝の露


千光寺の写真
落ち着きを得て63歳の生涯を閉じた千光寺







関月尼の墓の写真
千光寺の境内にある関月尼の墓

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