みやざきの百一人ロゴ 島津随真院(しまづずいしんいん)1801(享和元)年〜1876(明治9)年


●幕末に名旅日記残す
 1冊の女性の旅日記がある。作者は島津随真院、佐土原藩第9代藩主島津忠徹(ただゆき)夫人。日記が書かれた1863(文久3)年は、武家政治が変貌(へんぼう)する、まさに幕府崩壊の寸前で、大名の参勤交代制緩和と、その家族たちの藩地への帰国を許可した。
 「江戸下り島津随真院道中日記」の名が示す通り、63歳の随真院が江戸から佐土原までの陸路65日間の旅程が、清らかな知的抒情によって記され、文中の和歌72首は豊かな感性がにおいたつ。また仏教に深く帰依していた作者の、深遠な信仰心がその劇的な人生に投影する。日記冒頭の「こたびおほやけの仰(おおせ)も有りて…」と政令により同3年3月8日江戸を立ち、5月13日佐土原着。明治維新の正史に取り上げられることのなかった1人の女の愛が旅日記の行間に漂う。
 随真院は薩摩藩主、島津斉宣(なりのぶ)の姫で随姫(よりひめ)と呼ばれ、16歳で結婚、3男6女に恵まれるが、夫が参勤交代の途中、草津本陣(滋賀県草津市)で病いのために43歳で急逝、彼女は髪をおろし随真院となった。時に39歳。藩主急逝にかかわる跡目相続の複雑さからその死を50日余り秘め通した。本陣では遺体の長桶(おけ)に炭などをつめ口止めを守った。
 旅日記からは予期せぬ出来事に、随真院が新しい人生への思索と行動を決意した心がくみとれる。まな娘の美姫(よしひめ)が嫁ぐ苗木の城(岐阜県中津川市)と文を取り交わし、草津では夫への追慕を詠む。母の、女の秘めた情念が1行、1首ににじむ。「あつさをもしばしわすれて坂の名の水落(みずち)ときくにうるほひにけり」国もとで初の1首。7月には薩英戦争、時は奔流となる。(三島 敏子)
メモ
◎新しい旅へ
 佐土原に帰った後、夫の命日を正確な日付に改め大法要を行った随真院は島津家菩提寺、高月院に阿弥陀如来像を願文と共に納める。これは、旅先で名高い寺参けいの折に詠んだ「弥陀の本願」の和歌の神髄と同じである。古典の造けいも深く、駕籠(かご)から浅間山を望めば伊勢物語、望月の宿では藤原定家、石山寺では紫式部をしのぶ。須摩での平家物語回想は自己の原体験を重ねてのばん歌となる。佐土原の慈母と敬慕されたが、旅中も、きこり、田畑の男女らに生活者の視点を持ち感謝を忘れていない。中津川の古文書に、一行46名との記録があり道中の心遣いも察知できる。
 佐土原から出兵した戊辰(ぼしん)の役、戦没供養の地蔵尊を高月院に建立するが、母方の二本松(福島県)城主丹羽(にわ)家は落城。身内が敵味方の戊辰の役であった。「諸霊追善」の願文に随真院の痛哭(つうこく)が伝わる。激動の時を生き抜いた母性と英知の女人は東京広尾の東北寺に眠る。


大阪住吉大社の写真の写真
随真院が帰りの途中参けいした大阪住吉大社。島津家宗始祖・忠久を祭る「誕生石」がある。







願文の写真
随真院直筆の願文

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