みやざきの百一人ロゴ 阿萬豊蔵(あまんとよぞう)1810(文化7)年〜1876(明治9)年


●飢餓に苦しむ人援助
 豊蔵は現清武町に生まれた。年少の時から明敏で勉学を好んだ。安井滄洲、息軒父子に師事し、その優れた資質を認められた。1832(天保3)年、23歳の時、江戸に上り昌平黌(しょうへいこう)に入った。特に儒学者・古賀外字庵(どうあん)について経学を修め、4年後に帰国した。帰国後は清武明教堂教授となり、後進の教育に尽くした。
 嘉永年間(1848〜1853)、清武郷中野地頭所の参政となり、地域の行政を受け持った。豊蔵は、木原、熊野、海江田の3村を担当したが、このころこの3村は貧しくて飢餓に苦しみ、租税も納まらなかった。
 豊蔵はそのままにしておくことができず、村人に自分の乗馬や、自分の所有する山の樹木を伐採させて金に換えさせ、その金で租税を納めさせた。そしてその残金で村人の生計を援助した。豊蔵の温厚篤実な人柄と誠実な施政は、村人に慕われ尊敬された。
 そのころ、天領吉村の農民が、大淀川左岸の飫肥藩領瀬頭の土地に入り、勝手に溝を掘り畑の作物を荒らしたので、境界争いとなった。
 豊蔵は外字村庄屋と交渉したが進展しないので、現日向市細島にあった富高手代所、さらに日田代官所に交渉を進め、藩主の命を受けて江戸幕府に直接訴えて、ついに飫肥藩の勝訴とした。1852(嘉永5)年のことであった。
 その後、藩校振徳堂の教授となった。1869(明治2)年、藩の学制改革に尽力したが、翌年引退して今泉に住んだ。
 1876(同9)年、恩師・息軒と同じ年に病没した。(甲斐 亮典)
メモ
 豊蔵が残した日記、1843(天保14)年以降の日記18冊が、県立図書館に保存されいる。豊蔵が携わった明教堂の教育の状況や当時の武士の生活がよく分かる史料である。
 日記のほかに、豊蔵がかかわった天領外字村との境界論争の史料、藩政に関係した記録、西南戦争で戦死した子息・忠規の日記、豊蔵の書簡なども含め「阿萬文書」として保存されている。豊蔵は「鉄崖」と号し、漢詩文や文人画を能くした。師の息軒は「篤夫(豊蔵)をして力を文章にきわめしめば、則ち天下恐らくは及ぶ者なからん」と評している。
 また七弦琴を好み、暇をみては巧みに弾じ、菊の花を愛してよく観菊会を楽しんだという。


振徳堂の写真
豊蔵が教授をしていた飫肥藩の藩校振徳堂







阿萬豊蔵日誌の写真
阿萬豊蔵日誌

目次へ
14 島津 随真院のページへ
16 宮永 真琴のページへ