みやざきの百一人ロゴ 宮永真琴(みやながまこと)1837(天保8)年〜1908(明治41)年


●郷士の俊才を育てる
 短夜や空行く月も急ぐらし  真琴

 幕末から明治へ時代は揺れ動く。世相を敏感に受け止め、ただならぬ決意を吐露した真琴の1句。幼少にして儒医者谷山子恕(しじょ)に学び、8歳にして漢詩を詠み、周囲の人々を驚嘆させたという。老梅舎吟叟(ぎんそう)・藤岡樵史(しょうし)は彼の雅号で、ことに詩文に通じ、和歌・俳句にも力量を発揮した。
 真琴は剣柄(けんのつか)神社(本庄稲荷)の神職の子として、本庄村(現国富町)に生まれた。成長するに及んで皇学を学び、勤皇の大義を唱え決起の日を待った。折しも米良山の領主米良則忠が甲斐右膳・大膳父子、米良要人らとともに倒幕へ動いたが、則忠は幕命を受けた人吉藩相良氏によって幽閉された。1863(文久3)年初冬、甲斐父子、要人らと謀り西米良山中に100余名を集め、再挙の旗をかざしたが相良氏に捕らえられた。やがて、米良則忠・宮永真琴・米良要人らは許されて帰郷。甲斐父子の釈放はかなわず、相次いで獄中に果てた。真琴の時代の男としての悲憤は、つきることがなかった。「甲斐父子の幽死を悼む」の七言絶句が、その忠実を語り心をうつ。
 維新後、真琴は剣柄神社の神職を継ぎ、稲荷信仰の本拠としての名を高め、伝統行事の継承と充実に努めた。一方では高岡郷第一郷校の漢籍教授を勤め、幾多の俊才を育てた。渡辺国太郎、井上甚太郎、宮永百次、石神徳蔵、毛利元美ら枚挙にいとまがないほどである。
 真琴は晩年を医業にささげたが、死後5年を経た1913(大正2)年5月、時の県知事有吉忠一は、その業績をたたえて“追美の章”を贈った。(山口 保明)
メモ
 宮崎日日新聞社で久しく社長・会長職にあった宮永真弓は、真琴の嫡孫。真弓編に「宮永真琴集」がある。その一文に「祖父(真琴)などが捕らえられた当日は、児原稲荷の大祭で、夜明けの急襲を受け、従容として縛についた(中略)幕府直轄地の住人であるという理由で祖父は出獄を許されている」とある。
 真弓は朝日新聞社に在籍して新聞人としての資質を養い、故郷の新聞社に迎えられた。比類なき手腕を発揮、ジャーナリストとして活動する傍ら、晩年は王朝文学の情趣をくみ、多くの作品を発表。「二千年の花」「つゆ草秘抄」「海から聞こえる笛」「幻現の時計」「散花散文」などがあり、文人をはじめ各界との交遊もすこぶる広かった。
 わけても和泉式部に寄せる思いは、つゆ草への思慕と重なり、豊かな感性で語られている。その流麗な筆致も魅力である。昭和61年病没。行年83歳であった。


宮永真琴の写真
宮永 真琴







剣柄神社の写真
宮永真琴が社掌をつとめた剣柄神社(国富町)

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