みやざきの百一人ロゴ 後藤伊左衛門(ごとういざえもん)1828(文政11)年〜1915(大正4)年


●造林業のパイオニア
 県下一の大地主、山林王といわれた伊左衛門は、現在の高城町の旧家、後藤家に生まれた。
 伊左衛門の最初の造林は、数え年14歳の時であった。それは、寺子屋の師匠への謝恩に山を贈ることを考えたからである。
 当時、伊左衛門の父五市(ごいち)は、藩御用船主として江戸、大坂と行き来していた。各地を回って帰宅すると、江戸、大坂港に集散するおびただしい木材のこと、吉野の美林などの話を語り聞かせていた。この父の話に、少年伊左衛門の夢が膨らんでいったのである。
 しかし、当時の薩摩藩では植林経営を藩士には許したが、庶民には許さなかった。そこで父五市は、師匠吉田藩士の名義で近くの石山(現高城町)に七反歩の山地の貸下(かしさげ)を申請し、これに伊左衛門が造林して師匠に贈った。
 こうした窮余の策をとりながら、1853(嘉永6)年、個人経営の造林を始めた。25歳の時であった。彼は十数人の働き手とともに、馬数頭に小屋掛けの材料や寝具、食料などを積んで山に入った。
 伊左衛門が40歳になったとき明治維新となり、植林についても、民間に門戸が開かれ植林しやすくなった。そこで伊左衛門の造林はますます大規模なものとなり、山中に5、6棟も小屋を並べ、さながら集落の観を呈した。植林地も大淀川全域に求めた。
 こうして明治末には、造林面積200町歩に達し、「日向の山林王」といわれるに至った。
 明治44年、緑綬褒章を受章し、その功績が表彰された。(塩水流 忠夫)
メモ
外字(かねご)印の櫓木(ろぎ)
 安政のころ(1854〜1859)日向の赤江港からの外字印の櫓木が江戸深川の木場に着くと、房総の漁師は争って買い求めた。
 江戸へ一刻も早く生きのいい魚を運ばねばならぬ房総の漁師にとっての生命は櫓であった。伊左衛門は、薩摩藩で槍(やり)の柄に一位樫(いちいがし)が用いられていることから、櫓木にこれを選び、これまで鋸(のこ)で引き割っていたのを金矢(かなや)を打ち込んで引き裂く方法を発明したのである。
 こうしてつくられた櫓は、強じんなものになった。そしてたちまち「外字の櫓木は日本一」という評判をとった。


伊左衛門の写真
明治23年ごろの伊左衛門の写真







茶の湯器一組と西王母手置物の写真
伊左衛門愛用の茶の湯器一組(右)と長生を願い、島津忠濟公爵よりちょうだいした西王母手置物

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