みやざきの百一人ロゴ 中瀬淳(なかせすなお)1864(元治元)年〜1950(昭和25)年


●「後狩詞記」の共著者
 柳田国男の『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』は、日本民俗学の黎明(れいめい)をつげた一著といえるだろう。本書には「日向奈須の山村において、今も行われる猪狩りの故実」とサブタイトルを付す。
 1908(明治41)年7月10日、郡会議事堂(現宮崎市)において農政経済講和を済ませた柳田は、旅館神田橋に宿泊。翌日、椎葉村へ出発、富高−神門を経て13日に村長中瀬淳に迎えられた。当夜は松尾の松岡宅に泊まり、中瀬の案内で18日までの“椎葉検証”の旅が始まる。柳田の本来の目的は、焼畑跡地に自生する山茶、シイタケやコンニャク栽培の可能性を探る調査であった。
 柳田のもう1つの関心事は、中瀬の話す“猪狩り”であった。15日に大河内椎葉徳蔵宅で『狩之巻』を見た柳田は、いよいよ猪狩りに心を寄せる。帰京した柳田は数度にわたり手紙を送って、中瀬はこれにこたえる。農政学者と山村の村長との心からなる交流であった。
 椎葉村を訪れた翌年、柳田は『後狩詞記』50部を自費出版、本書は「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」と付録の「狩之巻」から成る。柳田は序文に「記事の全部はことごとく椎葉村の村長中瀬淳氏から口または筆によって直接に伝えられたものである」と書いている。さらに彼は「今日ではこれが日本民俗学の出発点のようにいわれている」(「故郷七十年」)とも自負している。
 中瀬は25歳で村の助役となり、1893(明治26)年村長に選任され、柳田が訪れたときは4期目、村の状況に精通していた。『椎葉村是』をまとめあげるなど、村の発展に大いに貢献した。1998(平成10)年7月、柳田の椎葉村採訪以来90周年を迎えた。(山口 保明)
メモ
◎民俗学発祥芝地碑
 『柳田国男全集』の編集に尽力した高藤武馬は、椎葉村を訪れ日隈惣七(ひぐまそうしち)(22代村長)に面談、碑の建立を懇望した。高藤は「耳川の源流椎葉の里に“後狩詞記”と刻んだ日本民俗学発祥の記念碑を建ててほしいのである。それがそこにあるというだけで椎葉は忘れ得ぬゆかしい土地となるだろう」(『旅つづれ』)と記している。
 待望の碑は、1985(昭和60)年8月開催の“民俗の原点・椎葉シンポジウム”を機に除幕。碑正面に民俗学発祥之地と刻み、柳田の「椎葉村を懐ふ」と題する歌。
 立ちかへり又みゝ川のみなかみに
   いほりせん日は夢ならでいつ
 の1首を紹介。大河内の竹ノ枝尾の旧中瀬宅前庭に設置、両人の友情を伝えている。1993(平成5)年には“柳田国男ゆかりサミット”を開催。さらに椎葉民俗芸能博物館がオープン。柳田来遊以来、90年を越えて山村文化発信の基点となっている。


中瀬淳の写真
中瀬 淳







竹ノ枝尾の写真
柳田が訪れた中瀬の旧宅のある竹ノ枝尾の風景

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