みやざきの百一人ロゴ 網代幸吉(あじろこうきち)1827(文政10)年〜1894(明治27)年


●漁業者の移住に奔走
 古老の話によれば、明治初期の現川南町通山浜は、半農半漁の家が数軒しかない寒村であった。通山浜の沖は、尾鈴山の豊かな緑から流れ出る小丸川、平田川、名貫川などがプランクトンを運び、豊富な水産資源を蓄えていたが、港となる適当なところがなく、漁業に眼を向ける人がいなかった。
 旧平田村の坂ノ上に、文政のころ(19世紀の初めころ)京都山科から移住した網代家があった。この付近に出る良質の粘土で瓦製造を始め、次第に需要を増やして繁昌した。
 この家系の3代目に幸吉は生まれた。彼は通山浜の漁業に注目し、漁業者の受け入れを図ろうとした。漁業者の多い現日向市の細島に出かけて、1883(明治16)年、まず3家族を移住させた。船や漁具も買い与え、自家所有の炭小屋を改築して住居も用意した。
 移住した漁業者は、多くの漁獲をあげた。これを見た地元民は、「移住者が自分たちの分まで獲ってしまう」と心配して、移住者を拒む行動に出た。幸吉は1軒1軒回って説得し、移住者の受け入れの理解を得ることに努めた。
 当時の閉鎖的な村情では、極めて困難なことであったが、通山浜の漁獲が豊かなことが知られると、細島からの移住者は次第に増えて、今日では4百数十戸の大集落になった。
 1945(昭和20)年、日本の敗戦によって、広大な土地を擁する川南町には、多数の開拓者が移住して今日の町勢の基を築いた。
 新しいものを受け入れて発展させる気風は、網代幸吉に始まるといえよう。(甲斐 亮典)
メモ
◎「通山浜開祖之碑」
 初め金比羅社にあったが、崖崩れのため1977(昭和52)年、通山浜の一つ松児童公園内に移転した。
 通山浜集落開拓の始めを、1883(明治16)年としている。細島から3家族が移住した年である。
 碑文は、網代幸吉とその協力者三浦甚助、細島から移住した3家族を、集落開拓の祖として、その功績を伝えている。
 碑文にいう「…開拓ノ起源ハ井手庄五郎、日高八五郎、宇田津儀助ノ三君細島ヨリ移住シ来タリ漁労ニ従事シタルニ始マル…当時ノ義人網代幸吉、三浦甚助両君ノ斡旋努力ニヨリ、遂ニ幾多ノ困難ヲ経テ素志ノ貫徹ヲミルニ至レリ…」と。


現在の川南町通山浜の写真
細島などからの移住者で戸数が増えた現在の川南町通山浜







石碑の写真
網代幸吉らを顕彰した石碑

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