小野葉桜(おのはざくら)1879(明治12)年〜1942(昭和17)年


●牧水の友人で悲劇の歌人
 東臼杵郡西郷村に生まれた小野葉桜(本名岩治)は、若山牧水に大きな影響を与えた友人として知られているが、葉桜白身が秀でた歌人だった。ただ、その文学的業績は久しく人々に知られなかった。
 向学心の強い葉桜は、1904(明治37)年ドイツ語学校に通うために上京した。ところが、上京後2カ月余りで日露戦争の召集令状が来て、勉強を断念せざるを得なくなった。葉桜の第1の不幸だった。
 日露戦争が終わって宮崎に帰ってきた葉桜は、代用教員をしたり、薬店を開店したりしていたが、1907(同40)年には東臼杵郡会議員に選ばれた。郷土での社会改革や政治活動に自己の使命を見いだそうとしたのである。
 ところが、第2の不幸に見舞われた。人力車事故のために頭部を強打して病気となり、議員を辞任せざるを得なくなったのである。この事故は政敵によるやみ打ち説もささやかれているが、何れにしても葉桜は断腸の思いであった。失意の日々を送っていた葉桜は、10代のころに熱中していた短歌に再び打ちこみ始め、ちょうどそのころ父の病気のために帰省した旧友の若山牧水と文学を熱っぽく語り合った。やがて牧水は上京してしまったが、彼のはからいで葉桜歌集は出版される予定だった。
 牧水は葉桜の作品に高い評価を与えていたのである。1914(大正3)年、葉桜は歌集『悲しき矛盾』の原稿を作ったところで、精神に異常をきたしてしまった。第3の不幸であった。
 それから70余年を経て西郷村の人々によって出版された『悲しき矛盾』は読者の心を打ち、版を重ねている。(伊藤 一彦)
メモ
◎牧水の日記に見る葉桜
 葉桜と牧水の親交は、『若山牧水全集』の日記にはっきりと残っている。例えば、延岡中学4年の牧水が美々津の葉桜を初めて訪れたときのことは「舟ニテ美々津ニ到リ、小野葉桜ヲ訪フ、初対面ナリ、直チニ歌合セヲ開ク、題ハ、梅、椿、磯、硯、春ノ五ツ、夜浜田屋ニ泊ス」(明治35年12月29日)と記している。翌年、牧水から葉桜へ25通、葉桜から牧水へ24通の手紙が出されている。この年に一緒に回覧同人誌『野虹』を出している。
 1904(明治37)年1月には、葉桜は上京する。その事も牧水の日記には「葉桜ついに昨夜、木曽川丸とやらにて出港せる由」(1月26日)と記されている。そして、4月には牧水が早稲田入学のため上京し、2人は東京で再会する。その様子も牧水の日記に詳しく記されている。


小野葉桜の写真
小野 葉桜







歌碑の写真
西郷村に建てられた小野葉桜の歌碑

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