塩月桃甫(しおつきとうほ)1886(明治19)年〜1954(昭和29)年


●鮮烈な色調で描く
 現西都市に生まれた。旧佐土原藩士永野家の4人兄弟の3男。本名は善吉。15歳で代用教員を務めた後、宮崎師範学校に学び、都農町の塩月家の婿(むこ)養子となった。1912(明治45)年に東京美術学校(現東京芸大)を卒業。大阪浪華小学校に勤めた後、1915(大正4)年愛媛師範学校に転任、本格的な画業に取り組む。翌年第10回文展初入選した。30歳のときであった。その当時、木兆(ぼくちょう)の雅号で、水墨画を描いた。在職6年で台湾に渡った。
 1917(同6)年台北一中、台湾高等学校教官として赴任した。やがて彼のうつ勃(ぼつ)たる精神は台湾美術界の振興をはかるべく1927(昭和2)年台湾総督府美術展(台展)を創設、審査員となった。1919(大正8)年から1921(同10)年にかけては、当時日本画壇の新進作家であった藤島武二、梅原龍三郎などを審査員として招き、台湾の美術振興の基礎を築いた。
 敗戦後、リュックサック1つで英子夫人と郷里宮崎に引き揚げ、貧しさの中で、ただひたすらに画業に取り組む。1951(昭和26)年宮崎大学講師となってようやく生活が落ち着いた。
 彼の作品は強烈な色調で破調とも思える作風であった。「蕃人(ばんじん)舞踊団」(宮内庁所蔵)、「舞妓」(県立美術館所蔵)など秀作を残した。美術評論家柳亮は奇才と呼び若々しい艶(つや)と情熱に驚くとともに「中央で活躍していたら、当然一方の雄たり得た人だろう」との賛辞を寄せている。
 台湾からもかつて調査団が来宮したが、1998(平成10)年、再び県立美術館の所蔵品を調査に訪れている。桃甫作品の再評価がなされているきざしとも考えられる。(黒木 淳吉)
メモ
 台湾時代の教え子津田雄一郎は塩月桃甫の印象を「ロイド眼鏡にトルコ帽、おまけに頭は禿(は)げた部分のまわりでカールされている。その人の頭の構造は一体どうなっているのだろうかと一瞬疑った」と、述べている。宮崎に引き揚げてからも、そのユニークな容貌(ようぼう)は街の話題となった。台湾時代から交流のあった作家中村地平は「告別式前後」(1955年『世界』2月号)の中に桃甫と息子の交情を描いている。文学青年だった息子と画業にひたむきの桃甫とを対比させながら、その愛情を克明に、情感豊かにまとめた小説である。
 その地平が、桃甫の貧窮を幾分でも救おうと高校の臨時教師の職を紹介したことがある。桃甫は1度だけ勤め、後は「時間がもったいないからといって断ったという。絵を描く時間が割かれるという理由らしい。自分の生きる歳月を計算しての画業に取り組む作家魂をみた」と、後日地平は述懐している。


塩月桃甫の写真
ロイド眼鏡にトルコ帽の独特のスタイルの塩月桃甫







舞妓の画像
1949年制作の「舞妓」

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