みやざきの神話と伝承101ロゴ 49 白鬚神社
 
 
 
       
  ●浦島太郎終えんの地
 尾鈴山を背に、はるか日向灘を望む川南町姥嶽(うばたけ)に白鬚(しらひげ)神社は鎮座している。イザナキノミコト、タケハヤスサノオノミコト、猿田彦大神などを祭っている。
 社伝によれば、天長2(825)年の創建。江戸時代末までは「白鬚大明神」と呼ばれていた。浦島太郎が龍宮から高鍋町蚊口の浮島なる鵜戸(うど)を経て帰着。知り合いもなく、ここを終えんの地にしたという。
 神社の奥にクスノキの大木があり、以前からこの根元で「フユゴメリ」の祭りが行われてきた。現在の長川周太宮司によると、「冬ごもり」がなまったものと考えられる。祭礼は旧暦11月12日の夕方で、戦前は夜半まで白鬚集落に尾脇、大内の両集落が参加した。戦後は白鬚集落だけとなり、今では神社の祭礼日と1日と15日の月次祭(つきなみさい)に供え物をして祭っている。
 漁師の浦島太郎は、わら蓑(みの)を常用していた。このため、祭礼前日に新しいわらでわらの丈ほどの蓑を編み、約1メートルの小竹を立て、蓑を着せてご神体とし、祭りの夕刻に供え物をする。火よけ、水よけ、家内安全、五穀豊穣(ほうじょう)、交通安全を祈願。50年ほど前までは、漁師の参拝客が多かったという。
 現在の社殿は天保9(1839)年、高鍋藩主・秋月種任(だねただ)、種殷(たねとみ)父子の寄進で再興された。それ以降、数回改修されている。家内安全、延命長寿、災難厄よけ、安産、交通安全、さらに牛馬の守護神として昔から藩主の尊崇が厚かった。神領、祭器、社殿造営などの寄進を受けたが、廃藩でそれを失った。
 明治6年、イザナキを祭ることから、「多賀神社」と改称された。同40年、近くの十文字に新設された小学校は神社の名前を取って「多賀小」と名付けられた。祭りには学校あげて参加していた。そして昭和6年、所在地の字名から白鬚神社になった。
 明治末期の軍馬補充部設置(現在の県農業大学校)や、戦後の食糧増産期に「牛馬守護神」で有名になった。高鍋藩史料からその理由を考えると、宝暦4(1754)年、藩営の岩山牧への山犬の出没に際して同神社での祈とうや天明2(1782)年4月から同神社祭礼で競馬が許可されたことが関係していると思われる。競馬は昭和20年ごろまで続けられた。
後藤徹一
 






白鬚神社の写真
白鬚神社。
牛馬の守護神としても知られる

       
 
 
 

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