みやざきの神話と伝承101ロゴ 95 御鳥羽様
 
 
 
       
  ●不運な上皇の死悼む
 串間市は広く海に面し、風光明美な地にふさわしく漂着伝説も豊富である。
 江戸時代だけでも、禁制下にイタリア人宣教師の潜入や、たびたびの琉球船、唐船の漂着、さらには密貿易船の来航など、海を玄関とする地ならではの出来事が多く、伝承の背景となっている。
 都井岬の付け根に当たる宮之浦から約800メートルほど離れた同市大納の鳥羽には、「御鳥羽様」の伝説がある。「宮崎県福島郷土史」によると、その昔、後鳥羽上皇が賊兵のために船に乗せられて漂流し、鳥羽に上陸したが、病が重くなり、崩御した所だという。
 上皇が漂着した所を御着場、その海岸の小さな岩を御着岩と呼び、尊い岩として今でも地区の人はこの岩には近づかない。また人家と海岸の間にある100平方メートルほどの畑は、仮御殿の跡とされ、御成場(おなりば)という。近くの円形に見える小高い森は上皇のご陵と伝えられ、頂に古いお宮があり、3つのご神体が祭られている。中央が上皇、右が后(きさき)、左が家来で、古くは多くの宝物があったという。
 宮之浦は、後鳥羽上皇が上陸した所と伝えられ、鎮西八郎為朝が琉球に流される途中、沖の船から弓矢を射たが、それが杉尾神社に留まったから御矢(みや)の浦ともいわれる。また近くにある恋が浦は、上皇が鳥羽の丘の上に立って東の空を望み、都を恋しのんだことから、名付けられたという。
 後鳥羽上皇(1180−1239)は広大な上皇領荘園を基にした財力で、院政を行い、鎌倉幕府の北条政権と覇を争う権勢を誇った。しかし、承久3(1221)年の承久の乱で執権の北条方に敗れ、幽閉された。その所領は没収され、やがて隠岐の苅田に移され、18年後の延応元(1239)年、隠岐で没した。
 遺骨は山城国(京都)大原の西林院に移され、ご陵は京都市左京区大原院、火葬塚は隠岐の海士町にある。
 その死とともに、上皇の怨霊(おんりょう)がうわさされ、恐れられた。院政全盛期の上皇の広大な荘園の中に権門の荘園であった櫛間院(現在の串間市全域)が含まれていたのかどうかは確認できない。鳥羽に残る「御鳥羽様伝説」は承久の乱後、日向国で北条氏の支配が一段と強くなり、その中で不運な上皇の死を悼み、こうした地名伝承が生まれたものであろう。
永井哲雄
 






恋が浦の写真
漂着伝説が多く残る串間の美しい海岸
(写真は恋が浦)

       
 
 
 

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