みやざきの神話と伝承101ロゴ 101 塩屋権現
 
 
 
       
  ●築堤工事の「人柱」に
 寛文2(1662)年9月19日の夜、日向大地震が発生した。南部の被害が大きく、飫肥藩では田畑8500石分が海に沈み、家屋の倒壊1213戸、流失家屋246戸、死者は15人にのぼった。大津波に田畑をさらわれて人々は困窮、農地の確保が急務とされた。
 当時の藩主は藩政を預かって1年余、飫肥藩中興の主といわれた第5代伊東祐実。飫肥・油津間の河川開削、甘ショ栽培の奨励、盆踊りを許すなど善政をしいた名君であった。農地を得るため、外浦港の入り江を埋めて堤防を築く方策がとられた。しかし、地盤が軟弱で波が荒く、幾度も破壊されて築堤工事は困難を極めた。
 南郷町下中村小島の小高い丘に物語の主人公「お塩さん」は祭られている。人々は感謝の意をこめて、「塩屋権現」と呼ぶ。この丘からちょうど平地をふさぐようにして、堤防が両方へ延びている。これこそが「塩屋権現」の堤防。長さ約700メートル、幅5メートル、今も内側には耕地が広がっている。
 第3代藩主・伊東祐久の時代にも、外浦防潮堤の大工事が行われたが、天災を免れることはできず、幾度も補強工事を行った。(ちなみに「お塩さん」の話は祐久時代との説もある)。堅固な堤防にするため、関係者が話し合い、古来の風俗に従って〈人柱〉を建てることに決まった。
 そこで、だれを人柱に選ぶか、相談を重ねた結果、ある庄屋の提案が採択された。「縦じまの模様に横じまの布で繕った着物を身につけた娘としてはどうじゃ」。庄屋はそんな姿の娘をさがそうと自宅に帰ってみると、まな娘のお塩の姿こそまさしくその通りだった。庄屋は泣く泣く自分の娘を人柱に建てた。
 その後、工事は順調に進み、築堤のおかげで待望の耕地も造成された。一説によれば、人々の危急を救うため、庄屋の責任からまな娘を人柱に建てたとも伝える。お塩さんの命日は11月20日。近年は勤労感謝の日の23日に塩屋権現の祭りが行われている。若くして人々を助けた、そのけなげな霊を慰め、感謝するささやかな祭りだ。
 海辺近くに田畑を造成することは、大変な難事業であった。それこそ大役を担った庄屋たちは心血を注いで工事の遂行に専念した。この物語は事業の困難さ、関係者の苦労、そして犠牲者をしのぶための教訓のようにも受け止められる。
山口保明
 






塩屋権現の写真
塩屋権現。
今もお塩さんの徳を伝える

       
 
 
 

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