
これは、飲酒と車の運転に対しての甘い考えが取り返しのつかない悲劇を引き起こし、被害者や遺族の方々の人生を狂わせたばかりでなく、自分の家族等周囲の人生をも狂わす結果となった交通事故の加害者が、市原刑務所服役中に執筆した手記を掲載したものです。
男性(47歳)
平成17年4月、午後8時半過ぎ、自ら主催した関係機関との宴席も無事終了し、全員をタクシーで送り出した後、私もタクシーで帰宅しました。
家の前でタクシーを降りたのですが、明日の早朝出勤のことを考え、出掛けるときに自宅近くの事務所に停めてあった車を取りに行きました。宴席では日本酒二合、生ビール中ジョッキ二杯ほどを飲んでいたのですが、まだ大丈夫、家まで5分ほどなのだからと自分勝手に考え、車を運転してしまいました。
家に近付くと、今度は竣工検査を一週間後に控えた能力増強増築工事の進捗状況が心配になりました。酒を飲んでいることも忘れて、家の前を通り過ぎ工事現場へとハンドルを切りました。5分ほど車を進めると、飲酒と連日の残業の影響か眠気を強く感じ「コトン」という音で次第に意識が戻ってきました。
「え、今の音は」「何か当たったのか」など考え出すと心の中に黒い影が広がり、何故か恐ろしくなって音がした場所へ戻れず、そこから逃げるように近くの警察署へ車を走らせました。警察署に着くと既に救急車が出動していて、高校3年生の男子をはね重傷だと聞かされ、その場で現行犯逮捕されました。その後の現場検証で、速度も40キロ制限の県道を60キロで走行していたことがわかりました。
私がはねた被害者は、私の次男の中学時代の野球部の後輩で、当日も野球の練習を終え、後輩と一緒に自転車で帰宅中とのことでした。次男の中学時代は練習試合には塁審として参加し、被害者の両親とは共に父母の会で活動していました。
逮捕されたその夜、午前3時頃、急性硬膜下血腫により亡くなったと知らされ、留置場の中で「人を殺してしまった」と凍りつきました。
2週間の勾留期間が終わり、保釈されたその足で被害者の家に謝罪に行きました。被害者の両親の怒りは想像を絶するもので、子供のために生きていた叫びは、この身を突き破るものでした。当日被害者が着ていた、血で染まり、破れてボロボロになった学生服を叩きつけられ「子供を返せ」と罵られても答えることができず、ただ涙が流れるばかりでした。
翌日から謝罪のため、自転車で片道40分ほど掛けて判決日の前日まで毎日通いました。被害者の家に着くと、玄関脇の庭の片隅で正座し、仏壇があるであろう方向に向かって経本を片手に30分ほど読経して帰るのです。私が通ったのは百日を越えました。妻と母は事故直後から毎日通っておりましたが、母は心労から6月に入院し、7月には妻も体調を崩してしまいました。
9月に下された判決は、危険運転致死罪および道路交通法違反で、求刑6年のところ懲役4年でした。損害賠償の民事裁判は、翌年5月で和解となり、被害者遺族へは自賠責より3千万円、上乗せ保険より6千640万円が支払われましたが、人の命とは決して釣り合うものではありません。
市原刑務所での受刑生活も残すところ8カ月になりました。被害者遺族の心情を考えると、満期で出所することが今の私にできる唯一の償いです。出所してからの償いは、残りの受刑生活の中でさまざまな指導を受け、被害者遺族にとっても最善の方法を考える所存です。

私が被害者の命を奪ったばかりに、被害者や私を取り巻く大勢の人達に一生消すことのできない傷を負わせ、多大な迷惑を掛けてしまいました。私の本当の償いは、出所して普通の生活に戻ってから始まります。
飲酒運転やひき逃げなどがますます厳罰化されている中で、被害者遺族が悲痛な声を上げ、私たち受刑者がどんなに後悔の言葉を並べても、聞こうとせず同じような過ちを犯す人が後を絶たないことは、いつまでも以前の自分を見ているようでとても辛いです。
(財)東京交通安全協会発行
「贖いの日々」より