小村寿太郎の人生を貫いた信念は「正直」でした。
世界の外交舞台で活躍し、日本に平和な繁栄をもたらした明治の外交官・小村寿太郎。その人生を貫いた信念は「誠」の一字。苦難の時代も、外交の大舞台も、ただひたすら正直であること。その思いが、世界の中で近代国家として日本が歩む道しるべを作りました。
幕末の飫肥城下、飫肥藩士の長男でありながら、身分にとらわれず多くの人と接して育った小村寿太郎。大学南校(東京開成学校 現・東京大学)からハーバード大学へ進学し、近代教育を学んでグローバルな世界観を身につけました。
外務省に入ると、明治日本の外交官として力を尽くします。日露戦争を終結させたポーツマス会議で日本の平和を、幕末に日本が欧米列強と結んだ不平等条約の改正によって、日本の世界的地位の確立を果たしました。
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1853(嘉永6)年 |
ペリー提督が開国を求めて浦賀へ来航、プチャーチン(露)が長崎へ来航 | |
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1854(安政元)年 |
黒船再来港、日米和親条約(神奈川条約)締結、日露和親条約締結 | |
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1855(安政2)年 |
日南市飫肥本町別当屋敷に生まれる(9月26日) | |
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1858(安政5)年 |
日米(英、仏、露、蘭)修好通商条約調印 | |
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1859(安政6)年 満4歳 |
私塾入学 | |
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1861(文久元)年 6歳 |
飫肥藩校振徳堂入学 | |
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1868(明治元)年 13歳 |
振徳堂東療入寮、鳥羽伏見の戦い、五箇条の御誓文 | |
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1869(明治2)年 14歳 |
振徳堂卒業、長崎留学、版籍奉還 | |
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1870(明治3)年 15歳 |
大学南校(現・東京大学)に貢進生として入学 | |
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1874(明治7)年 19歳 |
英文自叙伝を書く(18歳)、海外留学運動、東京開成学校と改称 | |
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1875(明治8)年 20歳 |
ハーバード大学入学(文部省第1回留学生) | |
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1877(明治10)年 22歳 |
ハーバード大学法学部卒業、専修科に進む。西南戦争が起こり、恩師小倉処平戦没 | |
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1878(明治11)年 23歳 |
同大学卒業後、ニューヨークの弁護士事務所で研修 | |
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1880(明治13)年 25歳 |
米国から帰国(11月)、司法省に就職(12月) | |
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1881(明治14)年 26歳 |
朝比奈マチと結婚、判事就任 | |
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1884(明治17)年 29歳 |
外務権少書記官、公信局勤務 | |
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1885(明治18)年 30歳 |
外務省翻訳局勤務、翻訳局次長心得 | |
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1886(明治19)年 31歳 |
翻訳局次長就任 | |
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1888(明治21)年 33歳 |
翻訳局長就任 | |
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1893(明治26)年 38歳 |
清国公使館参事官、清国公使館一等書記官、清国臨時代理公使就任 | |
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1894(明治27)年39歳 |
日清戦争勃発。北京から帰国、外務省政務局長就任 | |
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1896(明治29)年41歳 |
外務次官(大隈外相)就任 | |
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1898(明治31)年 43歳 |
米国公使就任 | |
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1900(明治33)年 45歳 |
露国公使、清国公使就任 | |
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1901(明治34)年 46歳 |
外務大臣就任 | |
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1902(明治35)年 47歳 |
日英同盟調印、男爵、華族 | |
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1904(明治37)年 49歳 |
日露戦争勃発 | |
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1905(明治38)年 50歳 |
ポーツマス条約調印(9月5日) | |
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1906(明治39)年 51歳 |
外務大臣辞職、枢密顧問官、英国大使 | |
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1907(明治40)年 52歳 |
伯爵を授爵 | |
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1908(明治41)年 53歳 |
外務大臣再任、条約改正準備委員長 | |
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1910(明治43)年 55歳 |
第2回日露協約調印、韓国併合 | |
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1911(明治44)年 56歳 |
日米通商航海条約調印、日英通商航海条約調印、侯爵、貴族院議員、日独通商航海条約調印、日仏通商航海条約調印、外務大臣辞任(在任、通算7年4か月) | |
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1911(明治44)年 56歳 |
神奈川県葉山にて死去(11月26日)、外務省葬(12月2日) | |
参考/日南市国際交流センター小村記念館パンフレット ※年表中の年齢は満年齢となります。 |
小村寿太郎が生まれたのは1855(安政2)年。その2年前、1853(嘉永6)年にはペリー提督の黒船が浦賀に来港し、翌年は日米和親条約、日露和親条約が結ばれました。
小村家は飫肥藩の下級武士で18石取り。町別当(まちべっとう)という役職でした。町別当は農村でいえば庄屋にあたる役職で、飫肥城下の商人町・本町に屋敷を構え、商人たちと親密なつながりを持っていました。
小村家の屋敷内には「客屋(きゃくや)」があり、藩を訪れた客は、まずここに泊まりました。そして、用向きを、小村家から藩へ取り次いでいました。全国地図を作った伊能忠敬も、小村家に泊まったそうです。
小村家は経済面にも明るく、藩外の情報も早く入る、そんな家だったのです。
寿太郎は7人きょうだいの2番目、長男として生まれました。大家族の中で、よく寿太郎の面倒をみていた祖母は、義経や弁慶などの話から武士道を語り、武勇だけではなく心に誠が必要、と繰り返し話して聞かせたといいます。
寿太郎は武士としての教えを学ぶ一方で、常にそろばんを手元に置き、広い農地を持つ叔父の農作業も手伝うなど、商売も農業も身近に接しながら、身分の別のない日々を送っていました。
寿太郎の母・梅子は商家の出身で、そのため小村家は商人とのつながりも深かったのです。母方の祖父は藩校「振徳堂(しんとくどう)」ができたとき、安井息軒から学んだ人で、藩が飢饉で苦しんだ時にはよそから高い値で米を買い、それを安くで人々に売ったというエピソードもあります。儒学の教えを実行した人でした。
体が小さく病弱だった寿太郎ですが、振徳堂に入学すると8年間無欠席。句読師(教師)の間でも将来を有望視される成績のいい少年でした。しかし、家が貧しいため学費を免除してもらうかわりに、門番や給仕の仕事をしなければなりませんでした。寿太郎は短い時間に人一倍の努力をして勉強を続けました。
振徳堂を卒業する時、寿太郎は進路に迷います。長男であったため父の後を継ぐか、更に学んで儒学者になるか。また6歳年上のおじが戊辰戦争で官軍に派遣されたことから、自らも鼓手(太鼓を叩き兵を鼓舞する役目)として出て行こうかと、あれこれ悩んだようです。
それを導いたのが、安井息軒の三計塾(江戸)にも学んだ小倉処平(おぐらしょへい)でした。振徳堂で教え、寿太郎の才能を高く評価していました。小倉処平は「飫肥の西郷」と呼ばれた人物で、その後も寿太郎を導き、大きな影響を与えます。
寿太郎が振徳堂を卒業した年、版籍奉還が行われました。明治維新です。
その頃、小倉処平は飫肥藩の長崎出張所にいて、そこで佐賀藩の大隈重信が作った英語学校致遠館を見ます。これからは英語が大事と感じた小倉は藩費留学を藩主に進言し、振徳堂で教えた中から何人か選び、長崎で英語を学ぶよう勧めました。
これによって小村寿太郎は長崎へと旅立ちます。父は、これから外国語が大切であると、寿太郎を応援したそうです。
期待に胸を膨らませて長崎に行ったものの英語学校はすでになく、憧れの英語教師フルベッキ先生は新政府に招かれて東京の大学南校へ去った後でした。しかし寿太郎はくじけることなく『英語独案内』を買って勉強を始めます。長崎には外国人も多かったため、外国人をみつけては英語で話しかけ、体当たりで英語を習得していきました。
翌年、寿太郎は東京の大学南校に貢進生として入学します。
大学南校(東京開成学校 現・東京大学)は、現代の大学と文部科学省が一緒になったようなところで、開設されてまだ1年。全国からエリートが集まっていました。大藩の出身者が多く、寿太郎のような小藩出身者には狭き門でしたが、ここでも小倉処平が活躍し、藩の規模に応じて入学できるよう政府に「貢進生(こうしんせい)」を進言。これによって入学を果たし、貢進生の中でも優れた50人にも選ばれて官費生(学費を免除される学生)となります。
そこで寿太郎は、5人の学友と留学運動を起こし、政府に建議書などを送り、西洋文明に直接ふれ、国の将来に役立てたいと強く訴えました。その結果、大学南校(現・東京大学)から11名が選ばれ、寿太郎も第1回文部省留学生としてハーバード大学へと留学を果たすのです。
1875(明治8)年、寿太郎はアメリカのハーバード大学法学部に入学します。
寿太郎はここでもずば抜けた記憶力を発揮し、気に入った論文は全て暗唱していました。素晴らしい成績で1877(明治10)年6月に卒業し、さらに1年専修科で学び、弁護士を目指して2年間法律事務所で実務研修をしています。
1880(明治13)年、司法省刑事局に就職し、翌年朝比奈マチと結婚。判事として裁判の仕事をし、4年後英語と法律ができることが決め手となり外務省へ。
しかし、上司を批判したことから翻訳局という閑職に追いやられ、ちょうどその頃父の事業が失敗し、1886(明治19)年小村家は破産。これによって小村家は多くの借金を抱え、寿太郎も苦難の時代でした。
やがて外務大臣・陸奥宗光によって、寿太郎は日本外交の中心人物となっていきます。1893(明治26)年、清国公使館参事官として北京に着任したのが外交の初舞台でした。
外務次官、駐米公使、駐露公使、駐清公使と、次々に大事な役職を経て、1901(明治34)年で外務大臣になり、日本の国際的な地位を確立することを掲げ、1902(明治35)年に世界最強のイギリスと日英同盟を締結しました。
1904(明治37)年日露戦争勃発。日本は超大国ロシア相手によく戦っていましたが、アメリカのルーズベルト大統領が仲介に入り、戦争の終結を図ります。1906(明治39)年、寿太郎は講和首席全権としてポーツマス市に赴きました。日露講和条約を締結したポーツマス会議です。
そこで寿太郎が国の未来のために選択し、命がけで決断したのは平和でした。戦いは優勢に見えましたが、国の財政は苦しく、これ以上戦争を続けることはできない状態だったのです。
こうして結ばれた日露講和条約は日本に平和をもたらしました。しかし、当時の国民からは「弱腰外交」とののしられ、日比谷焼き討ち事件が起こるなどしました。
寿太郎は一言の弁解もせず、後に飫肥に帰郷した時にこう語っています。「政治の難局に、我が身を忘れ国のために将来を思い、目的通り責任を果たした」。
このとき、ふるさとに帰った寿太郎を2万人の人々が歓迎し、提灯行列などでもてなしました。そして、これからの自分たちがどうすべきかを口々に問いかけたといいます。
1908(明治41)年、寿太郎は桂第二次内閣の外務大臣となり、平和維持と国の発展のため、幕末に結んだ不平等条約の改正に乗り出します。
関税自主権の回復、治外法権の撤廃を求めて米・英・独・仏との条約改正に臨んだ寿太郎は、ここでも見事な外交手腕を見せ、役目を果たします。
当時日本の最大の外交課題といわれた難題が解決したことで、1911(明治44)年日本は事実上の独立国家として認められるようになりました。
その年、寿太郎は『誠の一字』という自叙伝風手記を青少年向けに発表し、「私は人より特に優れたところがあろうとは思わない。もしあるとすれば、それはただ『誠』の一字に尽くされると思う」と書き記しました。
1997(平成9)年、アメリカの大学で発見された『My Autobiography』は、寿太郎が18歳のときに東京開成学校で書いた英文の自叙伝です。寿太郎の記録は意外にも少なく、それは当時の外交上の機密が多く含まれたことから焼き捨てられたと考えられています。
そんな中で発見された『My Autobiography』は、激動する日本政治の混乱や独自の世界観などが、端正な英文でつづられていました。東京開成学校時代の恩師グリフィス先生も、18歳の若者が書いたとは思えない深い内容を絶賛しています。
体が小さかったものの、成績抜群の寿太郎は学生からも尊敬される存在で、寿太郎に会うと、彼らは「いちいち帽子をとって」敬意を表したあいさつをしました。寿太郎は、普段の行いが誠実で一点のごまかしもなく、また法律問題でも筋道の立った議論をしたため「日本人にしては感心だ、ぐらいに思って」くれた結果だろうと、手記『誠の一字』に書いています。
ハーバード大学に留学した時に申請したパスポートによると、身長は156cm。
子どもの頃はおとなしく少女のようで、鼻たれ小村といじめられたことも。しかし先生たちは「いつも元気で考えが深く、何事にもよく耐える強い精神力がある。将来必ず名を残す」と期待したそうです。
外交官時代、側近の秘書官から外交官としての心得を教えて欲しいといわれた寿太郎は、即座に「まず『嘘』を吐かぬことです」と答えました。外交官は相手の信頼を得ることが大事。しかし時には国のために“大ぼら”をふかなくてはならないこともある。「普段から嘘が多い奴は、こんな時に効き目が無くなります」と付け加えました。
1906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。その時、寿太郎の講演はたった1分。
「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。」
諭すようにこれだけを話すと、寿太郎は演壇を降ります。大国との会議の様子など、雄弁な語りを期待した生徒たちに対して、この短いスピーチは強い印象を残しました。
元々は現在「小村寿太郎侯誕生之地」碑がある場所に建っていましたが、明治時代後期に振徳堂裏手に移築され、1921(大正10)年に武家屋敷通りの現在地に再び移築されました。老朽化のため市が改修整備し、2004(平成16)年から外観を一般公開しています。
1831(天保2)年に飫肥藩13代藩主・伊東祐相が、元々あった学問所を大きく増改築し、中国の孟子の教えから校名を「振徳堂」と名付けました。儒学者の安井滄州・息軒父子が城下に招かれ、藩校の基礎が築かれます。
(宮崎県立図書館蔵書より)
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※小村寿太郎侯生誕150周年・ポーツマス条約締結100周年記念事業