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宮 崎 港

 

昭和34年

昭和47年頃

平成12年

 大淀川の河口に位置する宮崎港は、古くは赤江港と呼ばれ、鎌倉時代から船舶の往来が盛んに行われていました。また、江戸時代には阪神方面との交流、物流の拠点として栄えてきました。しかし、大正12年の国鉄日豊本線の開通により、鉄道輸送が主流になったこと、河口港の宿命である洪水の頻発や河口の移動などにより船の運航を妨げることが多かったことなどの理由により、一時期衰退していました。
 戦後、大量輸送の必要性から宮崎港の整備が強く望まれるようになり、昭和32年から港湾改修計画に着手し、徐々に河口の安定を図ってきました。左の写真は、昭和34年のものであり、港はまだ単なる入り江の状態です。
 昭和44年からは、一ツ葉の入り江側の港湾施設も稼働を始め、急速に貨物の取扱量が増えてきました。このため、昭和48年には、新しい港口を北側につくるための宮崎港港湾計画が策定されました。中央の写真は、昭和47年のものであり、港の整備がかなり進んできたことがわかります。
 その後、昭和55年の漁業補償交渉の妥結などにより、着々と整備が進み、昭和62年に北航路、大淀川と港を仕切る道路や水門が完成し、新しい宮崎港が生まれました。このことにより、北航路から大型船の就航が可能になるとともに、小型船が南航路を安全に運行することができるようになり、港の機能は飛躍的に向上しました。右の写真は、平成11年の宮崎港です。