酒を愛し、旅を愛し、自然を愛した歌人 若山牧水。
幾度となく訪れる苦境に悩み苦しみながらも、その生涯を文学に捧げ、数多くの優れた作品を世に残しました。自然主義文学と呼ばれた牧水の歌が今もなお多くの人々に親しまれるそのワケとは・・・
牧水の作品の根底には常にふるさとへの強い思いとあこがれがあったと言われています。
歌人 若山牧水はわずか43年の短い生涯の中で実に9,000首(未発表含む)もの多くの歌を残しています。文才にすぐれ、短歌の他に随筆、童話、紀行文などを数多く手掛け、また新聞・雑誌歌壇の選者としても広く活躍しました。
明治中期以降、与謝野晶子など浪漫主義の歌人達が絶大な人気を博す一方で、牧水は社会や流行などに流されることなく、その時々に湧き起こる思いや頭に浮かぶ情景を独自の世界感で表現。自然主義文学と呼ばれる牧水の歌はたちまち人々の胸を打ち、文芸に親しむ人達だけでなく広く庶民の心に浸透していきました。
牧水の歌碑は全国に約300基(2010(平成22)年現在)確認されており、その数は歌人の中で最も多く、旅を愛した牧水の足跡、人気をうかがうことができます。牧水の生誕地 宮崎県日向市東郷町をはじめ全国ゆかりの地では、毎年歌人にちなんださまざまなイベントが行われており、国民的歌人 若山牧水は時代や世代を越えて今もなお多くのファンを魅了し続けています。
1885(明治18)年 | |
8月24日、宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷三番地(日向市東郷町)に生まれる。 | |
1896(明治29)年 11歳 | |
3月 坪谷尋常小学校卒業。5月、延岡高等小学校に入学し優れた文章家であった、担任教師の影響を受ける。 | |
1899(明治32)年 14歳 | |
3月、宮崎県立延岡中学校(現 宮崎県立延岡高等学校)の一期生として入学し寄宿舎生活。詩歌を深く愛する校長の山崎氏の影響を受ける。 | |
1901(明治34)年 16歳 | |
2月、延岡中学校友会誌に初めて短歌や小品文を発表。寄宿舎を出て下宿 | |
1902(明治35)年 17歳 | |
同級生らと回覧雑誌「曙」を発行。短歌専門の研究同人の為の野虹会を発足。投稿雑誌などにさかんに投稿。 | |
1903(明治36)年 18歳 | |
牧水の文才を認める教師から文学に専念することを進められる。秋頃からペンネーム「牧水」を使い始める。 | |
1904(明治37)年 19歳 | |
3月、延岡中学校卒業。早稲田大学文学科高等予科に入学。北原白秋と出会う。 | |
1907(明治40)年 22歳 | |
春、園田小枝子との交際をスタート。6月、岡山、広島など中国地方を旅行。 名歌「幾山河~」はこの時詠まれる。10月、東京に永住、純文学者になることを決意する。 |
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1908(明治41)年 22歳 | |
7月、早稲田大学文学部英文学科卒業。同時に第1歌集「海の声」発表。 | |
1909(明治42)年 24歳 | |
7月、中央新聞社に入社するが、およそ5ヶ月で退社。 | |
1910(明治43)年 24歳 | |
1月、第二歌集「独り歌へる」発表。雑誌「創作」の編集を開始。 4月、第三歌集「別離」を発表。人気歌人となる。 | |
1911(明治44)年 26歳 | |
9月、第四歌集「路上」を発表。園田小枝子との恋愛が終る。「創作」休刊 | |
1912年(明治45~大正元)年 27歳 | |
4月、友人 石川啄木の最期をみとる。 5月、太田喜志子と結婚。7月、父危篤の知らせに帰郷。9月、第五歌集「死か芸術か」発表。11月 父 立蔵永眠。ふるさとか文学か苦悩の日々が続く。 |
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1913(大正2年)年 28歳 | |
5月 母の許可を得て上京。9月、第六歌集「みなかみ」を発表。4月、長男 旅人誕生。 | |
1914(大正3)年 28歳 | |
3月「創作」誌友大会を開催。4月、第七歌集「秋風の歌」発表 | |
1915(大正4)年 30歳 | |
病気の妻のため東京から神奈川県三浦半島に転居。海辺での生活が始まる。10月、第八歌集「砂丘」発表。11月長女みさき誕生 | |
1916(大正5)年 30歳 | |
6月 第九歌集「朝の歌」散文集「旅とふるさと」発表。三浦郡から東京へ戻る。 | |
1917(大正6)年 32歳 | |
8月、女流歌人でもあった妻 喜志子との合著 第十歌集「白梅集」発表。「創作」を復刊。 | |
1918(大正7年)年 32歳 | |
5月 第十二歌集「渓谷集」・第十一歌集「さびしき樹木」発表。散文集「海より山より」発表。4月 次女 真木子誕生。 | |
1919(大正8)年 34歳 | |
9月、紀行文「比叡と熊野」発表 | |
1920(大正9)年 35歳 | |
晩年の地として東京から静岡県沼津へ移住。 | |
1921(大正10)年 35歳 | |
3月、第十三歌集「くろ土」発表。4月 次男 富士人誕生 | |
1923(大正12)年 38歳 | |
第十四歌集「山桜の歌」発表 | |
1924(大正13)年 38歳 | |
3月、父の十三回忌法要の為、長男 旅人を連れて帰郷。7月、紀行文集「みなかみ紀行」発表。 | |
1925(大正14)年 40歳 | |
2月、随筆集「樹木とその葉」発表。10月、沼津に新居が完成。 | |
1926年(大正15~昭和元)年 41歳 | |
「詩歌時代」創刊。経営難から六号で廃刊。 多額の借金返済の為、各地へ揮毫旅行へ出かける。 |
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1927(昭和2)年 41歳 | |
5月、妻 喜志子同伴で朝鮮半島へ揮毫旅行に出かける。6月、妻とともに坪谷へ帰郷。最後の帰郷となる。 | |
1928(昭和3)年 43歳 | |
急性腸胃炎兼肝臓硬変症にて9月17日、沼津の自宅にて永眠 | |
参考/日向市東郷町「若山牧水記念文学館展示資料ガイド」 ※年表中の年齢は満年齢となります。 |
牧水のふるさと日向市東郷町坪谷は自然豊かな山あいの峡谷にある集落です。
物心ついた頃からこの地が大好きだったという牧水は、1885(明治18)年8月24日、開業医の父 立蔵、母 マキの待望の長男として誕生。本名は「繁(しげる)」といい、最初は牧水の祖父 健海が「玄虎(げんこ)」という名を付けるはずでしたが、かなり時代遅れのその名に、牧水の三人の姉達が納得せず、当時自分達が愛読していた新聞小説の主人公の名前をヒントに「繁(しげる)」と名付け、祖父が留守の間に勝手に出生届けを出しました。
家族の愛情を一身に受け、豊かな大自然を遊び相手に過ごした日々は牧水が中学校に進学するまでのわずかな期間でしたが、この輝かしいまでになつかしい少年時代の思い出が、以後、歌人として生きた牧水の人生にあまりにも強烈で鮮明な印象を残すこととなりました。
現代の若者がパソコンや携帯電話に夢中になるように、この時代の若者のステータスのひとつといえば「文学」をたしなむことでした。明治後期からの文学界はとりわけ華やかで、今に名を残す才能豊かな多くの文人が活躍しています。
成績優秀で文学の才能を高く評価されていた牧水は文学熱心な教師の影響もあり、生まれて初めて歌を詠みました。その後文学雑誌への積極的な投稿で歌人としての頭角を現し、牧水の文学熱はますます高まっていきました。
牧水にとって間違いなく「文学のふるさと」となった母校(現 宮崎県立延岡高等学校)には国民的歌人となった先輩 牧水を偲んで胸像と歌碑が建立されています。
若山家の長男であるがゆえに父の後を継いで医者の道に進むのか文学の道に進むのか進路については、かなり思い悩んだ牧水。しかしどうしても文学の道を捨て切れず、家族や周囲の人達に何度も何度も手紙を書くなどして説得を続け、ようやく了承を得て早稲田大学文学部に進みました。この時、牧水に一番理解を示してくれたのは父 立蔵でした。
その後、将来を巡っては幾度となくふるさとの家族と衝突し、特に父の死後、その確執はますます大きくなっていきましたが、牧水は決して「文学」の道をあきらめることなく自分の信じる道を突き進みました。
生家裏山にある巨石には牧水が「文学か故郷か」で思い悩んだ時の心境を詠んだ歌が刻まれています。牧水はこの巨石に寝転んで大好きなふるさとの尾鈴山を眺めながら将来について一人考えていました。
牧水の命日にあたる毎年9月17日には歌人を偲んで歌碑祭が行われています。
文壇華やかな時代、牧水は文学を通じて多くの友人たちとの交流がありました。
早稲田大学のキャンパスで出会ったのは後の詩歌人 北原白秋。同じ九州出身の白秋とは初対面から文学の話題で意気投合。同じ下宿で寝食を共にした時期もありました。
文学思想は違っていたものの石川啄木との交流も深く、特に啄木の死に際してはその最期を看取った、ただ一人の友人であり、その後、啄木の葬儀の準備のため、牧水は役所や葬儀屋などを忙しくかけまわりました。
牧水は大学時代に園田小枝子と出会い大恋愛をしました。
それは苦しさを覚えるほど熱烈なもので、生涯の伴侶とも考える恋人を得て、純文学者として身を立てていこうと決心します。
しかし、その愛が実ることは無く、牧水は失意のどん底に。更に追い打ちをかけるように出版事業にも失敗してしまいます。酒にあけくれる日々が続き、傷ついた牧水は自暴自棄に陥りその後何年も小枝子に対する悲痛な思いを引きずることとなりました。
しかし、小枝子との出会いこそが人気歌人 若山牧水誕生のきっかけとなったのです。小枝子との関係に悩みながら発表した第三歌集「別離」は好評を博し等身大で綴るせつない恋の歌は人々の共感を呼び、牧水は歌人として確固たる地位を築くことになったのです。
歌人としての名声がさらに高まりつつあった1912(大正元)年、牧水は文学少女 太田 喜志子と出会います。牧水の熱烈なラブレター攻撃と猛アタックの末、二人は結婚。
以後、喜志子は牧水の短歌文学を誰よりも愛し、夫、歌人としての牧水を一生支え続けました。旅の好きな牧水でしたが、旅先からは午前と午後の一日2回、必ず喜志子に手紙を書き、旅先で遭遇した出来事などをおもしろおかしく綴っていました。こうした心のよりどころとなる妻や家族の存在が牧水の歌により深みを与えていきました。
牧水の生家横に建立された夫婦(めおと)歌碑には夫婦の愛の深さを感じる二人の歌が刻まれています。
自然を愛し、旅を愛した牧水・・・しかし大正後期からの旅は借金返済の為のハードな揮毫旅行でした。
文学界発展の為に情熱をかけた出版事業に加え、沼津に新築した自宅建設費により多額の借金を抱えることとなった牧水は借金を返済する方法としての揮毫旅行を余儀なくされました。北海道や東北地方など牧水にとっては縁遠い地域を巡り、最終的には朝鮮半島にまで足を伸ばす苦行が続きました。
そういった旅の疲れもたたったのか、1928(昭和3)年9月17日、牧水は急性腸胃炎兼肝臓硬変症で、わずか43年の生涯に幕を閉じました。
20歳ぐらいから使い始めた「牧水」というペンネームは当時、牧水がもっとも愛していたものの2つを組み合わせたものです。
ひとつは大好きな母の名 マキ(牧)。そしてもうひとつはふるさとの地を潤す水。
日向市の若山牧水記念文学館には牧水の等身大パネルが展示されています。
ヘアースタイルは幼い頃から変えることもなくずっと丸刈り。ややぽっちゃり系で身長は156cmと小柄だったようです。
朗詠も得意だった牧水、当時、ラジオから男性にしては少し高めの牧水の声を聞くことができましたが、残念ながらその肉声は残されていません。
大学卒業後、文学活動にいそしむ牧水でしたが、生活のため、知人のすすめで二度ほど新聞記者に転身しました。
満州(現在の中国)で暗殺された伊藤博文の無言の帰国を横須賀港で現地取材するなど、新鮮で臨場感溢れる牧水の記事はひときわ目をひく文章で名文記者の名が高まりつつありました。しかし大嫌いな洋服姿での仕事と、文学活動に支障をきたすという理由などから、わずか数ヶ月で退職しています。
自然美あふれる沼津に暮らした牧水は近所の松林が大好きでした。ところが、当時、財政難にあえぐ静岡県が松林を伐採して県の運営費に充てるという計画が持ち上がったのです。
これに深く悲しんだ牧水は地元の人達と一緒になり、先頭にたって松林を守る運動を応援し、各地で演説などを行いました。こうした運動の成果もあり松林の伐採計画は中止。
現在、東海道随一の景勝地として沼津市民に親しまれている千本松原には全国で第1号となる牧水の歌碑(1929(昭和4)年建立)があり、毎年秋には盛大な歌碑祭が開催されています。
1845(弘化2)年、祖父健海によって建築され、1階部分は当時医院として使われていました。築160年以上が経過する生家は当時の面影をそのままに1966(昭和41)年、宮崎県の史跡として指定され、一般に公開されています。
酒をこよなく愛した牧水。酒にまつわる歌も数多く残しています。写真右の柳とコウモリが描かれている盃は「青柳に蝙蝠あそぶ絵模様の藍深きかもこの盃に」と実際に歌に出てくる盃で、牧水の棺に一緒に納められたものです。
(若山家所蔵/社団法人 沼津牧水会寄託)
書籍名 | 著者・監修 | 出版 |
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牧水の風景 | 塩月 眞 | 延岡東郷町人会 |
牧水の生涯 | 近 義松 | 短歌新聞社 |
若山牧水 | 小林 勝美 | 清水書院 |
若山牧水さびしかなし | 田村 志津枝 | 晶文社 |
あくがれゆく牧水 | 伊藤 一彦 | 鉱脈社 |
牧水の心を旅する | 伊藤 一彦 | 角川学芸出版 |
若山牧水東京展ガイドブック | 若山牧水記念文学館 | |
若山牧水記念文学館展示資料ガイド | 若山牧水記念文学館 | |
若山牧水と延岡 | 延岡市教育委員会文化課 | |
ふるさと再発見 みやざきの百一人 | 宮崎県 | 宮崎県みやざき文化振興課 |
いざ行かむ、まだ見ぬ山へ | 伊藤一彦 | 鉱脈社 |
牧水の書と歌と人と | 伊藤一彦、榎本篁子 | 日向市 |
若山牧水 新研究 | 大悟法利雄 | 短歌新聞社 |