「猪突猛進」これこそ、石井十次の生き方。信じた道をまっしぐらに突き進むエネルギーは計り知れません。
慈愛深い母、徳の教育が重んじられた高鍋の風土。高鍋の歴史と文化と人とに育まれた偉人・石井十次は、急激に近代化する日本社会が生み出す社会問題に真っ向から立ち向かい、児童救済に生涯を捧げました。
児童福祉制度などなかった明治時代において、児童救済に力を尽くした石井十次は「児童福祉の父」と呼ばれています。
1人の貧しい巡礼者の子を預かったことをきっかけに、医学の道を捨てて児童救済事業を開始。東奔西走しながら資金を集め、教育を施し、手に職を付けさせて子どもたちを自立へと導きました。その数は2千数百人にも及びます。
社会福祉、児童福祉といった概念をいち早く打ち立て、実践していった十次の意志は、今も茶臼原の大地で引き継がれています。心の闇、社会の闇が悲惨な事件を引き起こす現代こそ、十次の教育思想が見直されるべき時代なのかもしれません。
1865(慶応元)年 | |
宮崎県児湯郡上江村(現・高鍋町)に生まれる。 | |
1871(明治4)年 6歳 | |
藩校明倫堂に入学 | |
1878(明治11)年 13歳 | |
高鍋島田学校を卒業 | |
1879(明治12)年 14歳 | |
東京の海軍学校 攻玉社に入学、翌年4月に脚気を患い帰郷。 | |
1881(明治14)年 16歳 | |
内埜品子と結婚 | |
1882(明治15)年 17歳 | |
岡山県甲種医学校に入学 | |
1884(明治17)年 19歳 | |
岡山基督(きりすと)教会牧師・金森通倫より洗礼を受ける。馬場原教育会を立ち上げる。 | |
1887(明治20)年 22歳 | |
邑久郡大宮村上阿知の診療所へ代診に赴く。最初の孤児を預かり、さらに増えて孤児3人と岡山へ帰る。 門田村の三友寺に孤児教育会(後に岡山孤児院と改称)を設立。 | |
1889(明治22)年 24歳 | |
6年間学んだ医学書を焼き、孤児教育に生涯を捧げる決意を固める。 大日本帝国憲法、発布 |
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1890(明治23)年 25歳 | |
長女友子生まれる | |
1891(明治24)年 26歳 | |
濃尾地震の震災孤児93人を受け入れる | |
1892(明治25)年 27歳 | |
名古屋に震災孤児院を設立。次女震子生まれる | |
1893(明治26)年 28歳 | |
震災孤児院を閉鎖し、全院児を本院へ移す | |
1894(明治27)年 29歳 | |
院内に「活版部」「理髪部」「機業部」など、実業教育を兼ねた事業部を設置。宮崎・茶臼原へ移住開始 | |
1895(明治28)年 30歳 | |
三女基和子生まれる。コレラに罹患。品子永眠、吉田辰子と再婚。 | |
1896(明治29)年 31歳 | |
「岡山孤児院新報」第1号発刊。 | |
1897(明治30)年 32歳 | |
私立岡山孤児院尋常小学校開校 | |
1898(明治31)年 33歳 | |
音楽幻灯隊が寄付金募集公演を開始 | |
1899(明治32)年 34歳 | |
大原孫三郎と出会う。海外幻灯隊がハワイへ出発 | |
1902(明治35)年 37歳 | |
大阪出張所を設ける。教育功労で藍綬褒章を受ける | |
1903(明治36)年 38歳 | |
米国有志より寄付金が届く。岡山孤児院が財団法人に認可される。 | |
1904(明治37)年 39歳 | |
音楽活動写真隊が台湾へ渡る。 日露戦争勃発 |
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1906(明治39)年 41歳 | |
東北凶作地孤貧児救済に着手、皇后陛下より凶作地収容児のために金100円を受ける。院児数1200人に。茶臼原移住隊50人出発。家族制度を全面導入、委託制度を本格導入する。 | |
1907(明治40)年 42歳 | |
東京事務所、大阪事務所を開設。救世軍の創始者ウイリアム・ブースが来院 | |
1908(明治41)年 43歳 | |
腎臓炎を患う。8歳以上の男児63人を岡山より茶臼原に移す | |
1909(明治42)年 44歳 | |
大阪日本橋に愛染橋保育所、日本橋同情館を開設 | |
1910(明治43)年 45歳 | |
校舎1棟、塾舎7棟を岡山より茶臼原へ転築 | |
1911(明治44)年 46歳 | |
三女基和子永眠 | |
1912(大正元)年 47歳 | |
岡山に里子91人を残すのみとなり、茶臼原に移住完了 | |
1913(大正2)年 48歳 | |
「茶臼原憲法」を制定。長女友子が児嶋虎次郎と結婚 | |
1914(大正3)年 48歳 | |
長孫虓一郎誕生の電報に接し、1月30日午後2時永眠 | |
参考/『石井十次物語』岡山石井十次顕彰会 ※年表中の年齢は満年齢となります。 |
1865(慶応元)年、宮崎県児湯郡上江村馬場原(現・高鍋町馬場原)で生まれた石井十次。高鍋藩の下級武士である父 石井萬吉、母 乃婦子(のぶこ)の長男として、4歳で寺子屋へ入り、6歳で明倫堂に学びます。
名君と名高い秋月種茂公が創設した藩校明倫堂は、90年以上の歴史の中で「明倫堂教育」と呼ばれる教育文化を高鍋に根付かせていました。年配者を敬い親を大切にし、災難時には皆で助け合うといった、儒教的で徳を重んじる気風が、ここで生まれ育った十次の人格形成に大きく影響したと考えられます。
母は心やさしい女性で、近所に貧困する家や親のない子があれば物心両面で手助けしていました。その背中を見て育った十次もまた、困った人は放っておけない性格。十次7歳、『縄のおび』のエピソードは有名です。
明倫堂時代、十次は堤長発(ながあき)という素晴らしい師と出会います。明倫堂が閉校となると、先生を追いかけて赴任先の宮崎学校に転校したほど。堤先生は東京大学の前身「昌平坂学問所」で学んだことのある秀才で、人格もすばらしい人物でした。
先生に付いて勉学に励んだ十次は、明倫堂の校風を受け継ぐ高鍋島田学校をトップの成績で卒業しました。
「海軍士官になって国の役に立とう」。そう考えた十次は、東京の攻玉社という私学校に入学します。しかし、脚気を患い翌年帰郷。そんな時、友人と政治談義をした際のメモが警察の目にとまり、政府批判として鹿児島の刑務所に約50日間収容されてしまいます。在獄中に西郷隆盛の吉野村開墾話を聞いて深く感銘を受け、釈放されるとすぐに五指社を設立して開墾事業を始めたこともありました。
思いついたら即実行、猪突猛進。豪快でやんちゃな性分を持てあましていた若き十次は、自己コントロールのため日記に自戒自規の条文を作ります。その中身は、奢る気持ちに謙遜心で「克つべし」とするなど、当時の年齢を考えると驚くべき内容です。この条文が作られた背景にも、高鍋の道徳教育の高さが感じられます。
16歳で品子と結婚した十次。小学校の教師をしたり、宮崎警察署の書記をしたり、職を転々としていましたが、17歳の時、宮崎病院長の荻原百々平(どどへい)医師と出会います。荻原医師より「医師になって多くの人を救ってみないか」と勧められ、十次は岡山県甲種医学校へ入学。同時に岡山基督教会の金森通倫牧師を紹介されて、キリスト教の世界観が十次の中で徐々に広がっていきます。
金森牧師よりキリスト教の洗礼を受けたのは、十次19歳の時でした。
十次が実習していた診療所の隣に、貧しい巡礼者たちの宿となっていた大師堂がありました。そこで出会った子連れの女性から、男の子1人を十次が預かることに。この子「前原定一」が、十次の児童救済事業における第1号となります。
徐々に預かる児童が増え、十次は「三友寺」というお寺の一角を借りて「孤児教育会」(後に岡山孤児院と改称)の看板を掲げます。医師になることと児童救済への思いの間で苦悶した末、「医師になる人は大勢いても、児童救済をやる人間は自分しかいない」と確信し、生涯を児童救済に捧げる道を選択したのです。
その背景には、「二人の主に仕えることはできない」というキリスト教の言葉がありました。十次は境内で医学書を全て燃やし尽くし、児童救済ひと筋に生きる覚悟を決めました。
十次が児童救済の道を選んだその年、大日本帝国憲法が発布。急速に近代化を押し進める日本国内は、様々なひずみが生まれました。貧困に苦しむ人々が多かったのもその1つで、孤児院の子どもの数は年々増加。濃尾地震など天災も相次ぎ、十次は、調査に出向いては岡山へ児童を送りました。一時は院児数が1200人にも達し、生活が成り立つか不安な毎日でしたが、「全ては神の思し召し」として、とにかく突き進みました。
ユニークなのは、子どもたちが将来自立できるよう職業訓練を兼ねた「事業部」を作り、活版や機織りなど職業技術を指導したこと。後にこれらは孤児院の貴重な収入源となります。また、「密室主義」「満腹主義」「家族主義」など、心も体も健康に育つようにと特徴ある養護方法で児童教育に取り組みました。委託制度(里子)を試行・導入したのも十次が国内初だったのです。
その資金は十次の事業に賛同してくれる人々の善意や寄付、あるいは事業部の活動収益でまかなっていましたが、決して十分ではありませんでした。そこで新たに「音楽隊」を考案。児童たちによる音楽演奏の後、活動写真で孤児院の目的と現状を伝えるなどして義援金を集めるのです。
音楽隊の評判は広まり、全国各地で公演しては義援金を集めて回りました。台湾や中国、朝鮮半島など海外でも公演し、石井十次の名を広く知らしめることになります。
十次の活動は人々に感銘を与え、多くの理解者・協力者が徐々に増えていきました。中でも、倉敷の事業家・大原孫三郎は、物心両面で事業を支える最大の支援者でした。十次との出会いで文化事業や社会貢献に我が道を見出した大原にとっても、十次はかけがえのない存在。のちに十次は「君と僕とは炭素と酸素、合えば何時でも焔となる」とその友情を表現したそうです。
十次の亡き後、岡山孤児院の事業を継承し、様々な形で発展させたのがこの大原孫三郎です。
岡山での児童教育から次の段階へ進むため、1894(明治27)年、十次は故郷・宮崎の茶臼原へ孤児院移転のため、年長の院児から茶臼原に送り開拓に着手しました。フランスの啓蒙思想家ルソーの『エミール』に触発され、自然の中で自由に遊び学ばせる一大ユートピアを目指したのです。
途中で事業の中断を余儀なくされた時期もありましたが、18年後、ようやく茶臼原への全面移住が完了。大正へと改元された年でした。
大自然のなか、子どもたちは十次の教えを守り、「働き、かつ学ぶ」日々を過ごしました。十次の理想はこの茶臼原で確実に実を結び始めていました。
しかし長年の無理が健康を害し、移住して2年後、病床の十次は家族や友人に見守られて48年の生涯を閉じました。
1926(大正15)年、資金や後継者問題で岡山孤児院は解散、茶臼原校も閉鎖しましたが、第二次世界大戦の終戦後、十次の孫児嶋 虓一郎(コウイチロウ)が戦争孤児の救済を決意。1945(昭和20)年が残した茶臼原の地に「石井記念友愛社」を設立し、1948(昭和23)年には児童福祉法施行により石井記念友愛園が児童養護施設として認可されました。現在はその次男草次郎氏が事業を継承しています。
岡山から移築された建物に囲まれ、今も色あせない十次の教育理念のもと、数十人の子どもたちがのびのびと暮らしています。
十次7歳の頃、母に新調してもらった紬の帯をしめて、祭りに出かけました。すると神社の境内で友人の松ちゃんが泣いています。家が貧乏な松ちゃんは、ぼろのゆかたに縄の帯をしめて遊びに来ていたところ、何人かの子どもにいじめられたのです。
そこで十次は母が作ってくれた新しい帯を松ちゃんに渡し、自分は縄の帯をしめて松ちゃんを励まし助けました。家に帰っておそるおそる訳を話すと、母は「よいことをしたね」と頭をなでて誉めてくれたそうです。
口先だけでなく、自分のものを差し出して人を助ける十次の心は、心やさしい母を鏡にして育まれたのでしょう。
フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの著書『エミール』の中で、「子どもの教育は、心身の自然な発達段階に応じて、子どもの自主性を育て尊重し、諸能力を引き出すことにある」という教育理念が描かれています。
十次は、227日間もの長期にわたりこの英訳本を職員に訳読させ、その内容に深く感銘を受けます。そして、農業的労作教育を柱にした「散在的孤児院(里親村)」構想、「幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる」という「時代教育法」を案出。これが、茶臼原の自然の中で自由に遊び学ばせる理想郷づくりの根元となったのです。
1979( 昭和54)年、石井記念友愛社の敷地内に建てられました。十次の日記をはじめ関係資料約2000点を収蔵。奥の壁に作られた芹沢銈介作のステンドグラスには、キリスト教を厚く信仰した十次が描かれています。
書籍名 | 著者・監修 | 出版 |
---|---|---|
石井十次と岡山孤児院 | 細井勇 | ミネルヴァ書房 |
まんが石井十次物語 | 南一平 | 岡山石井十次顕彰会 |
石井のおとうさんありがとう | 和田登 | 吉備人出版 |
THE LIFE OF JUJI ISHII | 高鍋町教育委員会 | 石井十次顕彰会 |
石井十次賞十回記念誌『思いやりの心を求めて』 | 石井十次顕彰会 | |
実史「石井十次」青春の苦悩 | 恒益俊雄 | 近代文芸社 |
石井十次伝 | 石井記念協会 | 斯文書院 |
石井十次の道徳資料 | 高鍋町教育委員会 | |
郷土と石井十次先生 | 高鍋信用金庫 | |
タンカタンカタンタン | 比江島重孝 | さえら書房 |
宮崎の偉人(上) | 佐藤一一 | 鉱脈社 |
石井十次の生涯と思想 | 柴田善守 | 春秋社 |
石井十次 | 黒木晩石 | 講談社 |
父石井十次をしのびて | 児嶋友子 | |
ふるさと再発見 みやざきの百一人 | 宮崎県 | 宮崎県みやざき文化振興課 |