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宮崎県内には先覚者達にまつわる場所が数多く残されています。

先覚者は訪ねて

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川越 進

川越進 人生の歩き方

「一党一派に偏らない」

川越進が鹿児島県会議員となり、宮崎県再置運動に身を投じていたころ、全国では「自由民権運動」の嵐が吹き荒れていました。進も運動に積極的に関わり、宮崎・鹿児島に人脈を広げます。当時の活動家はさまざまな派閥に分かれ、団結や分裂を繰り返していましたが、進は不偏不党の立場で運動に関わり、その寡黙で誠実な性格もあって、多くの知己を得たと言われています。

川越進の功績とは

現在の宮崎県を誕生させた最大の功労者 川越進

写真:分県運動で奔走していた時代の川越進

分県運動で奔走していた
時代の川越進

明治時代初期に誕生した宮崎県。その後一度は鹿児島県に吸収合併され、改めて現在の宮崎県が誕生したのをご存知でしょうか?

鹿児島県の支配から脱却し、宮崎県民(旧日向国人)としての「誇り」と「アイデンティティ」を取り戻すために、各地で多くの有志が立ち上がりました。

その中心にいたのが、川越進です。彼は日向国選出の鹿児島県会議員として初めて、県会議長に就任し、宮崎県の分県を実現。
その後も宮崎県会議長や衆議院議員として宮崎県の発展に尽くしました。

川越進の存在があったからこそ現在の宮崎県があると言っても、決して過言ではありません。

川越進が駆け抜けた時代

略年譜

1848(嘉永元)年
  木原村(現・宮崎市清武町)に生まれる。(5月20日/旧暦)
1855(安政2)年 8歳
  郷校・明教堂に学ぶ
1869(明治2)年 22歳
  清武会所(のちの宮崎市清武支所)に勤務
1872(明治5)年 25歳
  都城県の設置に伴い、第47区・加納村の戸長(村長)に就任
1873(明治6)年 26歳
  美々津県、都城県が合併し宮崎県が誕生。職員となる
1874(明治7)年 27歳
  赤江恒久村(現・宮崎市)に転居
1876(明治9)年 29歳
  宮崎県が鹿児島県に併合されたのに伴い、鹿児島県職員となる
1877(明治10)年 30歳
  県職員を退職し、西南戦争に西郷軍として参加。大分で官軍に投降
1880(明治13)年 33歳
  鹿児島県会議員に当選。宮崎県再置の運動組織として「日州親睦会」結成代表となる。鹿児島県令に提出した分県請願書・趣意書が門前払い
1881(明治14)年 34歳
  県令を通じて、元老院に「分県建言書」を提出。日向国置県請願委員の代表として上京。
1882(明治15)年 35歳
  県会に日向国分県建議案提出。可決翌日の県会で再議の上廃案
1883(明治16)年 36歳
  県会議長に選出。分県建議案が可決成立。上申書を内務卿に申達。参事院で宮崎県再置県が認定され、三条実美太政大臣に上申さる。5月9日、宮崎県再配置の布告。7月1日、宮崎県庁が開庁。宮崎県会議長を務める
1884(明治17)年 37歳
  宮崎郡長に就任。大宮崎市構想(大淀川南岸地区との合併)を提言
1890(明治23)年 43歳
  衆議院議員に当選
1910(明治43)年 63歳
  東京に転居
1912(大正元)年 65歳
  政界引退
1914(大正3)年 67歳
  11月16日宮崎町(現・宮崎市)で病没
参考/「第6回ボランティアガイド養成講座・みやざきの先覚者たち」宮崎県立図書館 史資料調査研究員 徳永孝一ほか
※年表中の年齢は数え年となります。

川越進の幼少期

川越進は1848(嘉永元)年、清武郷木原村(現在の宮崎市清武町)で生まれました。当時は江戸時代の末期。幕末の動乱に火をつけたペリー艦隊が浦賀に来航したのは、その5年後のことになります。

当時の木原村は飫肥藩・伊東氏の領地で、進の父・茂平は飫肥藩の勘定方を勤めていました。8歳になった進は、清武郷にあった藩の郷校(ごうこう)・明教堂で学びはじめます。

明教堂は、安井息軒が父・滄州とともに創建したもので、国指定史跡・安井息軒旧宅の向かいにありました。進は16歳まで、ここで勉学に励みました。

鹿児島県への併合と西南戦争

1873(明治6)年、それまでの美々津県と都城県の大部分が合併し、宮崎県が誕生しました。しかしそれから3年後に、鹿児島県に統合されてしまいます。

これは全国的規模で行われたもので、それまでの3府59県から、3府35県に減少しています。背景には、旧藩士族の勢力を削ぐ狙いがあったと言われています。翌年始まった西南戦争で旧日向国内の大部分が主戦場となり、人的にも経済的にも多大な被害を被りました。

宮崎県再置運動の高まり

西南戦争終結後も戦争時の不満や、県庁のある鹿児島から遠いこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどの理由により、宮崎県の再配置を願う声が次第に高まっていました。

写真:分県運動で奔走していた時代の川越進

鹿児島県令より通達された
分県却下状
(宮崎県総合博物館蔵/
写真はレプリカ)

1880(明治13)年に開かれた地租改正に関する戸長会議の場で、県会議員でもあった川越進が日向国分県(宮崎県再配置)を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちによって「日州親睦会」が結成されます。会の代表となった進や、藤田哲蔵、上田集成らは県令に「分県請願書」を提出しますが、新たに着任した渡辺千秋県令が実現困難だとして門前払いにします。

日州親睦会のメンバーたちは日向国内各地を訪ね、宮崎県再配置を住民に訴えて運動の輪を広げていきました。旧薩摩藩領だった都城などの有志は、県令の意を受けた役人の工作により離脱しましたが、賛同の意思はある旨、進らに伝えています。

日向国出身在京人への働きかけ

当時ほかの地方では、徳島県が高知県から、福井県が石川県から独立するなどの事例があり、進たちの運動にも大きな影響を与えました。有志たちは話し合いの末、元老院へ建言書を提出することに切り替え、1881(明治14)年4月に県令を通じて、その筋へ執達されることになりました。

その一方で有志たちは、進と藤田哲蔵のふたりを代表として上京させ、政府当局者との交渉にあたらせることにしました。

彼らはまず、旧高鍋藩の世子(藩主の子)で、政府に出仕していた秋月種樹(たねたつ)に面会し、その紹介で内務省の担当者や、司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと会い、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志市など)などが反対しているため保留となっていることを知ります。

また政府の重鎮、山県有朋に面会し好感触を得、さらに山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷します。

進たちは翌1882(明治15)年3月の県会に「日向国分県建議案」を提出します。当時の鹿児島県会は3つの党が鼎立していたせいもあって、建議案は賛成多数で成立しました。ところが翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議書上程の可否について再議することを提案。上程しないことが決議されてしまいます。

これに憤慨した日向国選出の議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど、分県運動はさらに盛り上がりを見せます。

宮崎県再置実現

写真:分県運動で奔走していた時代の川越進

宮崎県再配置の
太政大臣布告
(宮崎県文書センター収蔵)

翌1883(明治16)年、鹿児島県会内の対立がつづく中、政党の争いと一定の距離を取っていた進が、県会議長に選出されます。これにより、3月に再提出された分県建議案は出席議員41人中39人の賛成を経て可決されました。

進はさっそく上京し、山田内務卿に分県建議書を申達。4月25日、参事院で「宮崎県を置くは適宜の分割と認定す」との結論が出され、三条実美太政大臣への上申を経て、5月9日に宮崎県再置の布告がなされました。日向国有志たちの3年に及ぶ努力が、ここにようやく結実したのです。

県発展に尽力

7月1日に県庁が置かれると、進は宮崎県会の初代議長に就任します。同時に、分県運動のころから皆と話し合ってきた、養蚕や茶の生産などのさまざまな振興策を建言し、新制宮崎県の発展にまい進します。

また、1890(明治23)年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展に寄与することになります。

分県運動こぼれ話

私財をなげうって行われた活動

写真:分県運動で奔走していた時代の川越進

晩年の川越進

川越進たちが繰り広げた分県運動のほとんどは、有志たちの私財を使って行われました。川越進の実弟で、宮崎で商売を行っていた中村二逸も、金銭面での積極的な支援を行ったと言われています。

進は1912(大正元)年に政界を引退しますが、国政での活躍や県の発展の推進のためさらに私財を投じたため、引退時には財産のほとんどを失ったそうです。「政治家などにはなるものではない」と子孫に言い残したというエピソードが残っています。

おとなしいと言われる県民性もいざというときは…

一般的におおらかでおとなしいと言われることの多い宮崎県民ですが、進たちの分県運動や、1690(元禄3)年に起こった、山陰(現・日向市東郷町)一揆など、いざというときには一致団結して決起することがあります。

“宮崎人”の温和な心の奥底には、熱く燃え上がる気持ちが秘められているのかもしれませんね。

川越進 人生の歩き方

宮崎県庁

1873(明治6)年1月15日、宮崎県(第一次)設置とともに宮崎郡上別府村(現・宮崎市橘通東2丁目)に、県庁舎が置かれました。

川越進胸像

「宮崎県の父」川越進の胸像は、宮崎県庁本館と議会棟の間に設置されています。

 

 

宮崎県総合文化公園 銅像

県総合文化公園内には小村寿太郎、川越進、石井十次、若山牧水、高木兼寛、安井息軒の銅像が設置されています。

 

関連資料

関連図書

書籍名 著者・監修 出版
ふるさと再発見 みやざきの百一人 宮崎県 宮崎県文化振興課
宮崎県五十年史 松尾宇一 小松善祐
<官>の成立・<民>の変貌 宮崎の歴史・明治時代前期 徳永孝一 鉱脈社

取材協力・参考資料

参考資料
  • <官>の成立・<民>の変貌 宮崎の歴史・明治時代前期
取材協力
  • 宮崎県立図書館資料調査研究室 徳永 孝一 氏
写真出典協力
  • 人物写真提供 / 中村圭介 氏
  • 宮崎県文書センター
  • 宮崎県総合博物館蔵