名所・旧跡等マップ

宮崎県内には先覚者達にまつわる場所が数多く残されています。

先覚者は訪ねて

先覚者にまつわるスポットを巡るためのオススメコースをご提案いたします。

高木 兼寛

高木 兼寛 人生の歩き方

医学だけじゃない、多方面に才能発揮の“マルチチャネラー”

宮崎県総合文化公園内の銅像

高木兼寛は医師としての功績がよく知られていますが、実はそれだけではありません。語学はもちろんのこと、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所など)、政治家(貴族院議員など)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家などさまざまな顔を持つ、現代で言うところのマルチ人間だったのです。

高木兼寛の功績とは

脚気の治療法を研究した“ビタミンの父”

英国留学中の高木兼寛

昔から国民病とも呼ばれていた脚気は、細菌が原因の伝染病だと考えられていました。しかし高木兼寛は、実際に病人を診て、その置かれた環境を調べることによって、脚気が栄養不足によって引き起こされると考え、軍艦の乗組員の食事を改善する実験を行います。

ところが、イギリスで臨床医学を学んだ兼寛に対して、東京大学や陸軍を中心とする日本の医学界の主流は、研究至上主義のドイツ医学でした。彼らは兼寛の栄養説を真っ向から否定します。

後に兼寛の研究はビタミンの発見につながり、脚気はビタミンBの欠乏で発症することが証明されます。このことから、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになるのです。


高木兼寛が駆け抜けた時代

略年譜

1849(嘉永2)年 
  東諸県郡穆佐村白土坂(しらすざか)(現・宮崎市高岡町穆佐)に、薩摩藩郷士・高木喜助の長男として生まれる。幼名・藤四郎(9月15日/旧暦)
1856(安政3)年 7歳
  中村敬助に四書五経を学ぶ
1857(安政4)年 8歳
  父について、大工の手伝いをする
1858(安政5)年 9歳
  阿万孫兵衛に薩摩藩に伝わる剣術・示現流を学ぶ
1866(慶応2)年 17歳
  鹿児島で石神良策に医学を学ぶ
1867(慶応3)年 18歳
  岩崎俊斎に蘭学を学ぶ
1868(明治元)年 19歳
  倒幕軍(薩摩藩九番隊付)として上京
1869(明治2)年 20歳
  鹿児島医学校(藩立開成学校)に入学
1872(明治5)年 23歳
  上京し海軍省九等出仕。瀬脇富と結婚
1875(明治8)年 26歳
  ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学
1880(明治13)年 31歳
  同校を首席で卒業し帰国し、海軍中医監、東京海軍病院長に就任
1881(明治14)年 32歳
  民間医学団体「成医会」結成。成医会講習所設立
1882(明治15)年 33歳
  海軍軍医大監に任ぜられる。海軍将兵の食事の実態調査始まる。有志共立東京病院を設立
1883(明治16)年 34歳
  龍驤号事件発生。脚気の栄養原因説を発表
1884(明治17)年 35歳
  練習艦筑波、出帆
1885(明治18)年 36歳
  麦飯の採用で海軍から脚気激減。わが国初の看護学校、看護婦教育所設立。緒方正規が「脚気病菌」を発見したと報告し、栄養説を批判。ドイツ留学中の陸軍一等軍医・森林太郎が「日本兵食論大意」を著し栄養説を批判。兼寛、海軍軍医総監に任ぜられる
1887(明治20)年 38歳
  有志共立東京病院を東京慈恵医院と改称。帝国生命保険会社(現・朝日生命)の創設に参画
1888(明治21)年 39歳
  わが国初の医学博士の学位を授与される
1890(明治23)年 41歳
  海軍の脚気絶滅を天皇に奏上
1891(明治24)年 42歳
  勲二等瑞宝章を受章。成医会講習所を成医学校に、さらに東京慈恵医院医学校に改称
1892(明治25)年 43歳
  貴族院議員に勅選される
1893(明治26)年 44歳
  兵食改善の功績が認められ、海軍軍医会より肖像が贈られる
1894(明治27)年 45歳
  日清戦争始まる
1898(明治31)年 49歳
  大日本医師会会長となる
1899(明治32)年 50歳
  宮崎神宮大造営計画を幹事長として推進
1901(明治34)年 52歳
  東京市会議員に当選。第12師団軍医部長・森林太郎が栄養説を批判
1903(明治36)年 54歳
  東京慈恵医院医学校、東京慈恵医院医学専門学校に昇格
1904(明治37)年 55歳
  日露戦争始まる
1905(明治38)年 56歳
  男爵を授けられる
1906(明治39)年 57歳
  欧米講演旅行に出発
1907(明治40)年 58歳
  東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称
1908(明治41)年 59歳
  東京慈恵医院医学専門学校を東京慈恵会医院医学専門学校に改称
1912(大正元)年 63歳
  国民体育奨励の講演行脚開始。鈴木梅太郎、ぬかの脚気予防因子を純化し、オリザニンと命名。フンク、同因子を純化し、ビタミンと命名
1914(大正3)年 65歳
  マッカラム、脚気予防因子をビタミンBと命名
1915(大正4)年 66歳
  勲一等瑞宝章を受章
1916(大正5)年 67歳
  「心身修養」を出版。全国各地で講演会を行う
1920(大正9)年 70歳
  4月13日、脳溢血のため逝去
参考/松田誠「脚気をなくした男 高木兼寛伝」講談社
※年表中の年齢は数え年となります。

戊辰戦争と西洋医学へのあこがれ

高木兼寛はペリー来航を直前に控えた江戸末期、薩摩藩領の日向国穆佐村白土坂(むかさむらしらすざか/現・宮崎市高岡町穆佐)に生まれました。

武士の子として、幼少期から学問や剣術を学ぶ一方で、父・喜助の手伝いで大工仕事にも精を出します。当時の薩摩郷士は、武士としての俸禄だけではなく、耕作や大工仕事などの副業で生計を立てるのが一般的でした。

その後兼寛は地元で敬愛されていた医師の黒木了輔にあこがれを抱き、医学の道を志します。17歳になると鹿児島に出て、石神良策に医学を学びます。2年後の1868(明治元)年には戊辰戦争が始まり、兼寛も薩摩藩九番隊付として上京します。

当時の藩医たちは、戦闘による傷の手当てに不慣れであったため、西郷隆盛が英国領事館の医師、ウィリアム・ウィリスに依頼し、負傷者の治療にあたらせます。ウィリスは麻酔を使った手術や消毒処置によって、多くの兵士を救います。この光景は、若い兼寛に大きな刺激となったことでしょう。

会津戦争後に帰郷した兼寛は、鹿児島医学校に赴任してきたウィリスと再会し、改めて英語と医学を学びます。その後、海軍省出仕を経て3年後の1875(明治8)年、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学します。

同医学校ではさまざまな医科学を学ぶと同時に、ナイチンゲール看護婦学校を見聞するなど、英国医学の特徴であった「臨床医学」や「看護婦養成」などを身につけます。兼寛が残した言葉「病気を診ずして病人を診よ」の精神も、この時期に身についたのかもしれません。

同校を首席で卒業した兼寛は、帰国後すぐに東京海軍病院長に任ぜられます。また、日本の医療界を刷新するべく民間医学団体「成医会」を結成します。

国民病・脚気との闘い

脚気栄養説の実証実験に使われた軍艦「筑波」

翌年、海軍軍医大監に任ぜられると、脚気についての調査に乗り出します。兼寛はその原因として、患者のいない英国海軍ではパンや肉など、たんぱく質の多い食事を摂っていたのと比較して、白米中心の日本食がその原因ではないかと考えたのです。

脚気とは末梢神経に障害を与え、下肢のしびれやマヒを引き起こし、ひどくなると死亡することもある病気です。富国強兵策を唱える明治政府にとって脚気は、兵力安定のための懸案事項のひとつとなっていました。

ちょうどその頃、太平洋横断の練習航海中の軍艦「龍驤」で、376名の乗組員中、169名の重症脚気患者(25名死亡)を発生させ、ハワイのホノルルにたどりつくという事件が発生しました。

龍驤はハワイ停泊中の食事を、米食から肉・野菜に変更したところ患者は快方に向かい、帰国することができました。このことは兼寛の仮説を補強する出来事でした。

脚気栄養説を確信した兼寛は、兵食改善を明治天皇に奏上。練習艦「筑波」に改善食(洋食)を搭載し、龍驤と同じコースをたどらせます。その結果、肉やミルクを嫌った者以外に患者なしという結果が出ました。その後海軍食は、主食をパンから日本人にも食べやすい麦飯に変え、脚気患者が激減します。

一方、ドイツの「研究室医学」が主流の東京大学と陸軍では、衛生学教授の緒方正規が「脚気病菌」の発見を報告したり、ドイツ留学中の軍医・森林太郎(のちの鴎外)が「日本兵食論大意」を著すなど、兼寛の栄養説を批判します。

海軍の栄養説と陸軍の伝染病説とは、長年に渡って論争を繰り広げますが、その結果として、日清戦争での陸軍の脚気患者は34,783名(死亡者3,944名)、日露戦争では実に211,600名の患者が発生し、27,800名もの兵が亡くなりました。一方海軍では、合計で患者約40名、死者は1名と決定的な差が生じます。

このような事実にも関わらず陸軍では、伝染病説を捨てませんでした。

しかしフンクによるビタミンの発見、マッカラムによる脚気予防因子ビタミンBの発見により、栄養説が実証されることになるのです。

医師や看護婦の教育と講演に情熱を捧げた晩年

成医会講習所の卒業生に
囲まれた兼寛

一方兼寛は、有志とともに起ち上げた成医会に医学校の成医会講習所や、国内初の看護学校「看護婦教育所」を併設したり、皇族や華族などの後ろ盾を得て、貧しい人びとのための病院である有志共立東京病院(のちの東京慈恵会病院)を設立するなど、わが国の医療・看護の発展に大いに寄与することになります。

これらの功績が評価され、1905(明治38)年に兼寛は男爵位を授かり、米コロンビア大学や母校のセント・トーマス病院医学校で講演。国内でも、体育の重要性を説いて回るなど国内外で活躍します。

このように輝かしい功績を残した兼寛でしたが、晩年は相次ぐ子どもの死去などでうつ状態となってしまいます。そして1920(大正9)年4月13日、脳溢血で72年の生涯を閉じます。

高木兼寛のエピソード

南極大陸に残る「Takaki」岬

南極大陸の高木岬

南極大陸から南アメリカ大陸方面に突き出した南極半島の中に、Takaki Promontoryと呼ばれる岬があります。これは英国の南極地名委員会によって命名されたものです。

周辺にはエイクマン岬、フンク氷河、ホプキンス氷河、マッカラム峰など、ビタミン学者たちにちなんだ名前がつけられています。このことからも兼寛の功績が世界的に認められていることがわかります。

ビタミン発見後の兼寛と森鴎外

文豪・森鴎外(本名・林太郎)は、ドイツ留学時代から脚気は細菌による伝染病原因説を唱え、栄養原因説を批判していました。脚気予防因子がビタミンBであることが判明したあとも自説を曲げず、1922(大正11)年に亡くなるまで、受け入れることはなかったと言われています。

一方兼寛も、ビタミン学の研究には熱心ではありませんでした。ビタミン学説が確立された後も講演会などでは、脚気はたんぱく質不足とと炭水化物の過剰摂取で発症すると述べていたそうです。

原因が栄養にあると分かった時点で、それ以上追究する必要を感じなかったのかもしれません。そこに兼寛の「病気を診ずして病人を診よ」精神が現れているのではないでしょうか。

高木兼寛 名所・旧跡

穆園広場(ぼくえんひろば)

東諸県郡穆佐(むかさ)村白土坂(しらすざか)にあったと言われる生家の近くにあり、国指定史跡・穆佐城跡の西側に位置する曲輪(くるわ)を利用して作られています。

高木家墓所

高木家の墓地は、宮崎市高岡町穆佐小山田地区にある、共同墓地の一角にあります。墓石側面には、兼寛が海軍軍医として東京に移り住んだということが書かれています。

 

天ケ城歴史民俗資料館

穆佐から西へ約5Km、宮崎市高岡町内山の高岡城(別名・天ケ城)址に建つ、天守風建築の資料館です。

宮崎県総合文化公園 銅像

県総合文化公園内には小村寿太郎、川越進、石井十次、若山牧水、高木兼寛、安井息軒の銅像が設置されています。

 

高木兼寛 関連資料

関連図書

書籍名 著者・監修 出版
脚気をなくした男 高木兼寛伝 松田誠 講談社
ふるさと再発見 みやざきの百一人 宮崎県 宮崎県みやざき文化振興課
病気を診ずして病人を診よ 倉迫一朝 鉱脈社
白い航跡(上・下) 吉村昭 講談社文庫(小説)

取材協力・参考資料

参考資料
  • 南極大陸地図 / 松田誠「脚気をなくした男 高木兼寛伝」講談社 1990年より
取材協力
  • 高木兼寛顕彰会 副会長 中山 芳教 氏
写真出典協力
  • 写真等出展 /東京慈恵会医科大学