幼い頃から学問に目覚め、生涯学ぶことを止めなかった儒学者・安井息軒。周りの冷やかしも一蹴してしまうほどの強い信念と高い志で、深く鋭く書物を読み解き、いつの時代にも通用する「真理」を追究した人物です。国を憂い、故郷を思いながら、己の学識と情報を惜しみなく提供し、多くの人材を育成しました。
政治の乱れや海外からの圧力で、幕藩体制が揺らぎ始めた江戸中期、安井息軒は生まれました。貧しくも信念をもった学者であった父・滄洲の影響で、古学に軸を置きながらも他学派を完全否定しない独自の研究姿勢を貫き、中国や朝鮮の学識者たちからも賞賛される大儒学者となりました。
清武では明教堂、飫肥城下では振徳堂で子弟の教育に励み、江戸に出て私塾・三計塾を開塾。次世代を担う優れた人材を多く輩出しました。
自らも「幕府儒官」という、学者としての最高地位にまで上り詰めました。息軒の大成した儒学の考えは、江戸期における学問の集大成と高く評価されています。
安井息軒は幼名を順作、字を仲平といい、1799(寛政11)年に安井滄洲の次男として生まれました。その頃国外では、産業革命で力をつけてきた欧米諸国が、アジアを植民地にしようと企んでいた頃。国内では、政治の乱れや一揆の多発、海外諸国からの圧力により鎖国政策も揺らぎ始めるなど、政治情勢が不安定でした。
幕府は幕藩体制を立て直そうと文武奨励や思想統制を行いますが、その厳しさにかえって強い民衆の反発を招きます。
徳川幕府が築いた江戸の泰平にかげりが見えはじめ、動乱期の足音がしのびよっていた。そんな時代だったのです。
江戸時代の学問といえば、古代中国における孔子の教えをひもとく「儒学」を指します。中国では、解釈の違いからさまざまな学派が生まれましたが、江戸期の日本では宋の時代の解釈「朱子学」を正学と定め、封建支配のための思想として採用しました。幕府直轄の学校・昌平坂学問所をはじめ、地方の藩校においても朱子学を教えるようにお触れが出されていました(寛政異学の禁)。
江戸時代の儒学は単なる一般教養ではなく、政治や民衆社会における倫理観をも導くものとして位置づけられていたのです。
息軒が生まれた飫肥藩清武郷中野(現・宮崎市清武町加納)は、戦国時代に戦いを繰り返していた島津藩領に近く、地頭役所が置かれた軍事的要所でした。文より武が重んじられた土地柄で、そこで兵学を教える立場にあったのが安井家。しかし、叔父の日高源助から学問や詩歌を学んだ父・滄洲は、学問と文化に目覚めます。
滄洲は、大淀川河口で商人の町として栄えていた城ヶ崎の町人文化集団と交流を深め、旅をしては和歌、俳句、漢詩を交えた紀行文を書いています。
当時滄洲と交友の深かった城ヶ崎の商人・南村恵蔵は、学資を援助するなど息軒の大成に大きく関わった人物でもあります。
江戸と京都で儒学を学んだ滄洲は、「清武のような田舎にこそ学問が必要」と考え、郷校「明教堂」を開いて子どもたちの教育にあたりました。
父滄洲の学問への強い思いが大儒学者息軒を生み、清武が「文教の町」へと歩み始めるきっかけとなったのです。
息軒の父滄洲は、息軒が幼いころに江戸や京都に出て学び、帰郷して中野で子どもたちに学問を教えました。
儒学の源となった古代中国で、学校をつくって人材を育て、文明を発達させたように、国の繁栄と人々の平和な暮らしには、「知」の力と「知」をもつ人材の育成、そして文化の隆盛が必要だと考えていたからです。
朱子学が主流の時代のなかでも滄洲は、「論語」など古典の文献に立ち返って直接、実証的に研究し、その思想を築くという古学派の考えを貫きます。その影響を強く受けた息軒も、柔軟な研究方針で古典を読み解くことで、誰も到達していない学問の真髄を見つけようとしました。生涯学ぶことを止めなかった息軒は、他派のいいところは取り入れながら、独自の儒学を大成することになります。
1799(寛政11)年 | |
飫肥藩清武郷中野に生まれる(旧暦1月1日) | |
1818(文政元)年 19歳 | |
父滄洲と共に延岡へ旅する、紀行文『卯の花』 | |
1820(文政3)年 21歳 | |
都於郡に旅し、紀行文『志濃武草』 大阪で篠崎小竹に入門する |
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1821(文政4)年 22歳 | |
兄清渓没する(25歳) | |
1822(文政5)年 | |
篠崎塾を退き、帰国する | |
1824(文政7)年 25歳 | |
江戸昌平坂学問所にて古賀伺庵に師事する | |
1826(文政9)年 27歳 | |
昌平坂学問所を退く。江戸藩邸勤番を命ぜられ、藩主祐相の侍読を兼ねる。6月、母没する。8月、松崎慊堂に入門する | |
1827(文政10)年 28歳 | |
松崎塾を退き、藩主と共に帰国。川添佐代を娶る。10月、郷校明教堂が創設され父と共に教授する | |
1829(文政12)年 30歳 | |
塩谷宕陰より『明教堂記』が贈られる。平部嶠南らと双石山に登り『南山霞標記』 | |
1831(天保2)年 32歳 | |
藩校振徳堂が再興、父滄洲が総裁兼教授、息軒が助教となり飫肥に移住 | |
1833(天保4)年 34歳 | |
藩主祐相の侍読として江戸に上る | |
1834(天保5)年 35歳 | |
藩主祐相に従い帰国 | |
1835(天保6)年 36歳 | |
父滄洲没する(69歳) | |
1836 (天保7)年 37歳 | |
江戸移住の下見のため出発 | |
1837(天保8)年 38歳 | |
昌平坂学問所に入所、学問所斉長となる。外桜田邸大番所番頭となる | |
1838(天保9)年 39歳 | |
藩職を辞し家族と江戸移住。紀行文『東行日抄』 | |
1839(天保10)年 40歳 | |
三計塾を開く(一説に天保12年) | |
1840(天保11)年 41歳 | |
慊堂宅で藤田東湖と初めて対面する | |
1842(天保13)年 43歳 | |
紀行文『讀書餘滴』、佐倉藩儒者となる | |
1843(天保14)年 44歳 | |
飫肥江戸藩邸で論語会読を始める | |
1847(弘化4)年 48歳 | |
『海防私議』、政務に参与、紀行文『続讀書餘滴』 | |
1849(嘉永2)年 50歳 | |
飫肥に養蚕製糸技術を伝える、『書説摘要』を脱稿、再熱稲種法を飫肥に勧める | |
1850(嘉永3)年 51歳 | |
飫肥に種痘法を伝える | |
1852(嘉永5)年 53歳 | |
飫肥・清武に種痘を公に施行するよう甥長倉玄圭に教訓を発する、『素堂記』 | |
1853(嘉永6)年 54歳 | |
水戸斉昭、藤田東湖を介して息軒に時事を問う。相談中を免ぜられ用人格となる。『靖海問答』『料夷問答』『外寇問答』『軍政問答』を著す | |
1854(安政元)年 55歳 | |
『蝦夷論』を著し、開発の必要性を主張 | |
1855(安政2)年 56歳 | |
水戸斉昭より「足食足兵民信之矣」の書を賜る。『救急惑問』を著す。飫肥藩の刑法制定に意見書を贈る。『西鈴輯要』を著す | |
1856(安政3)年 57歳 | |
紀行文『洗痾日乗』 | |
1859(安政6)年 60歳 | |
『睡余漫筆』を起稿する。紀行文『江山餘情』 | |
1862(文久2)年 63歳 | |
妻佐代没する(50歳)。藩御用人席となる。将軍家茂に謁する。塩谷宕陰、芳野金陵と共に幕府の御儒者となる | |
1863(文久3)年 64歳 | |
両御番上席十五人扶持となる。直参十人扶持(学資)下さる | |
1864(元治元)年 65歳 | |
終身六人扶持となる。奥州白川塙代官に任命→依願免官。『管子纂詁』を著す | |
1865(慶応元)年 66歳 | |
後妻槙子を娶る。『養蚕私録』に序を贈る | |
1867(慶応3)年 68歳 | |
徳川家の俸禄を辞する。『軍政惑問』を著す | |
1868(明治元)年 69歳 | |
領家村に避難し『北潜日抄』を著す、『戦国策補正』を考訂、『書説摘要』を脱稿。『左伝輯釈』の出版の校正のために代々木の彦根藩別邸に移る | |
1869(明治2)年 70歳 | |
明治新政府から天皇の侍講を勧められるが疾をもって辞退。飫肥藩臣籍に戻り、伊東祐帰の師範となる | |
1870(明治3)年 71歳 | |
辞録を願い出る。旧藩主祐相より杖を賜る。清国人応宝時から『管子纂詁』の序文が送り来る。『管子纂詁』を改訂する | |
1871(明治4)年 72歳 | |
清国人応宝時、邱濬洛から『左伝輯釈』の序文が送り来る | |
1872(明治5)年 73歳 | |
元旦試筆「瓦全」と書く。『論語集説』版本なる | |
1873(明治6)年 74歳 | |
『弁妄』『答問共和政事』を著す | |
1874(明治7)年 75歳 | |
伊東祐相の墓碑銘を撰す | |
1875(明治8)年 76歳 | |
宮崎県より十口俸、終身禄二十七石。『睡余漫筆』を書き綴る | |
1876(明治9)年 77歳 | |
9月23日死去。東京千駄木の養源寺に葬られる | |
参考/『安井息軒 その学問の真髄と生涯』清武町教育委員会 ※年表中の年齢は満年齢となります。 |
貧しい学者の父・滄洲(字は平右衛門)のもとに生まれた、学問好きな二人兄弟の弟、仲平(のちの息軒)。3歳年上の清渓(字は文治)と一緒に、家計を支えるために農作業に汗を流し、休憩時間に書物を読むという毎日でした。
息軒は幼い頃に天然痘という病気にかかり、右目はつぶれかけて顔はあばただらけ。
色黒で背が低かったこともあり、周囲から「猿が本を読む」などとからかわれていたそうです。つらい思いをしながらも強靱な精神で勉学に励み、父の蔵書を読み尽くすと、遠方までも本を借りに行くという貪欲さ。
21歳の時、父に願い出て大坂の儒学者・篠崎小竹に入門し、3年間学問に没頭しました。
大好きな兄の死をきっかけに一旦帰郷し、清武で父とともに子弟教育にあたりますが、さらなる向上心を押さえられず、江戸で学びたいと父に申し出て許可を得ます。25歳、古賀伺庵に入門し、全国から秀才が集まる幕府立の昌平坂学問所に入学。勉強熱心さと知識の深さ、弁論の鋭さで、先生も学友たちも一目置く存在となりました。
塩谷宕陰、木下犀譚、芳野金陵など、この頃に切磋琢磨しあった学友たちが、生涯にわたり息軒のよき理解者、かけがえのない友となったのです。
27歳になった息軒は、古賀塾を去り、松崎慊堂(こうどう)に入門。間もなくその慊堂に「もはや弟子ではない」と言わせるほど、息軒の実力はすばらしいものでした。
飫肥藩主伊東祐相(すけとも)の江戸での侍読(じとう:学問係)をしていた息軒は、母が亡くなった翌年、藩主祐相とともに帰郷。新設した清武の郷校「明教堂」(めいきょうどう)や、飫肥城下に再興された藩校「振徳堂」(しんとくどう)で教育に打ち込みました。
一方、藩に命じられて九州各藩の調査に出かけたり、意見を求められて藩政に提言を行うほど、政治面に於いても厚い信頼を得ていました。間引きの禁止令が出されたのも、息軒の意見が採用されてのことでした。
しかし、学問を深めたいという意欲は止まることを知らず、再度江戸へ。家族を連れて移住した息軒は、1839(天保10)年、40歳で三計塾(さんけいじゅく)を開きます。
のべ2000人もの塾生が息軒のもとで学び、明治になった歴史の舞台で活躍する谷干城や陸奥宗光など、国家有用の人材を多く輩出しました。
時は江戸末期、浦賀にペリー提督の黒船が来港(1853(嘉永6)年)。国政がさらに混乱するなか、息軒は宕陰、金陵とともに幕府儒官という将軍直参の職を拝命。「文久三博士」と称され、特に息軒は朱子学以外からの異例の大抜擢でした。また、幕府の直轄地・奥州塙の代官を命じられ建て直しを期待されましたが、こちらは高齢を理由に辞退しました。
学者としての頂点に登り詰め、政治面でも活躍を期待されるようになった息軒。老いてなお学問を究め書物を著し、その考えを後世に残そうと最後の力を振り絞ります。
その頃著した『管子纂詁』を読んだ清国江蘇按察使応宝寺は、息軒を賞賛する序文を送っています。
ついに息軒の学問は、国内だけでなく儒学の本山である大陸においても、他の追随を許さない域にまで到達したのです。
歴史の表舞台に立つことより、自らの学問を究めることで国に貢献し、後世の役に立とうとした息軒。晩年、玉砕と対局にある「瓦全」(大したこともせずに長く生きながらえている)という言葉で自分の人生を表現しています。
江戸期儒学の集大成を成し遂げた息軒は、幕末から明治へと激動する時代のなか、国家を支える座標軸となったのです。
生涯を通して手がけた多くの書物は、学問としてだけでなく、今ではその時代を知る歴史的資料としても貴重なものとなりました。
また故郷・飫肥藩への配慮も忘れず、養蚕や二毛作を奨励したり、種痘法を広めるなど、江戸にいながらも藩政に貢献。ふるさと・清武を想いながら、77歳の生涯を閉じました。
21歳の時、学問を志して大阪へ。父から預かった旅費10両を懐に、篠崎小竹に弟子入りした息軒。飫肥藩蔵屋敷の長屋を一室借り、寸暇を惜しんで儒学の本を読み書きしました。お金を無駄にするまいと、大阪で学んだ3年間で外食したのはたったの3度。毎日、醤油と塩で煮詰めた大豆をおかずにご飯を食べていたそうです。飫肥藩邸の人たちは、この豆をいつしか「仲平豆」と呼ぶようになりました。
25歳で昌平坂学問所に入った息軒は、その外見から同じ塾生たちに馬鹿にされる場面もありました。
そんな塾生たちが、仲平(息軒)の部屋に入って目にした1枚の紙切れには…
「今はひっそりと勉学に打ち込んでいるが、いつかホトトギスのように空高く舞い上がり、天下に知られるようになりたい」と歌っています。その志の高さ、意志の強さに、嘲笑していた塾生たちも押し黙ったそうです。
息軒が28歳の時、清武郷今泉村岡に住む川添家のお豊に仲人を介して結婚話を持ちかけましたが、破談に。ところがその妹お佐代が「私が嫁ぐことはできないか」と申し出て、息軒はお佐代と結婚しました。佐代は「岡の小町」と噂されるほど美しい娘で、16歳とは思えない甲斐甲斐しい働きぶりを見せました。森鴎外の小説『安井夫人』では、佐代を“美しき半身”と称し紹介しています。
生涯息軒に寄り添い、質素な生活に文句一つ言わなかったとされる佐代夫人。息軒が幕府儒官に到達する直前、50歳の若さで死去しました。
息軒が開いた三計塾の「塾記」にある言葉。
「三計とは何ぞ。一日の計は朝(あした)にあり。一年の計は春(元旦)にあり。一生の計は少壮の時にあり」
人生は若いうちこそ大事であり、奮起して勉強しなさい、という塾生たちへのメッセージです。厳しい塾でしたが全国から塾生が集まり、一時は100名を越す時期もあったほど人気を集めたそうです。
孔子やその門弟の言行を記録した書『論語』について、魏の時代の解釈を底本とし、国内では伊藤仁斎、荻生徂徠の説を引きながら、息軒自らの言葉で著した書。近代漢学界の大著『漢文大系』に所収されています。
書籍名 | 著者・監修 | 出版・発行者 |
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まんが 郷土の偉人 安井息軒 | 藤井龍二 | 清武町 |
日向の歴史と文化 | 早稲田大学日本地域文化研究所編 | 行人社 |
歴史散歩きよたけ | 清武町安井息軒顕彰会 | |
郷土の偉人・安井息軒 | 清武町教育委員会 | |
宮崎県地方史研究紀要 第26輯 | 宮崎県立図書館 | |
安井息軒 その学問の真髄と生涯 | 清武町教育委員会 | |
ふるさと再発見 みやざきの百一人 | 宮崎県 | 宮崎県みやざき文化振興課 |
宮崎の偉人 中 | 佐藤一一 | 鉱脈社 |
息軒遺稿 一~四 | 宮崎県立図書館 | |
安井息軒 | 黒江一郎 | 日向文庫刊行会 |
息軒先生 遺文集 | 黒江一郎 | 安井息軒顕彰会 |
安井息軒先生 | 若山甲蔵 | 蔵六書房 |
睡余漫筆 | 安井息軒(黒木盛幸 編) | |
ぶらり宮崎散歩道 | 楠山永雄 | 鉱脈社 |
江戸時代人づくり風土記45 | 石川松太郎ほか | 農山漁村文化協会 |
みやざき民話と伝説の旅 第2集 | 比江島重孝 | 宮崎市経済部観光課 |
日向郷土読本 第1巻 | 日野 巌 | 日向郷土会出版部 |
安井滄洲紀行集 | 黒木盛幸 編 | 安井息軒顕彰会 |
安井氏紀行集 | 黒江一郎 編 | 安井息軒先生顕彰会 |
安井息軒 | 安井息軒百年忌祭奉賛会 | |
日向郷土志資料第13輯 | 日向郷土会 編輯 | 文華堂書店 |
明教堂創建百五十年記念誌 | 清武町文教百五十年史編集委員会 | |
清武文教百五十年史 | 清武町文教百五十年史編集委員会 | 安井息軒顕彰会 |